ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

水に生まれる―マダバの聖使徒聖堂「タラッサ」のメダイヨンと銘文―物へと変わりゆくこの顔はオケアノスと見なされてきた(45)。甲殻類の鋏を頭から生やし、魚類と共に表されることに加え、葉や果実とも一体化したような作例に関し、グリュックは海の神であると同時にディオニュソス等の豊穣神でもある表現と考えた(46)。こうしたオケアノスの作例は、海の生き物を養い、一方で植物を育む水の働きを象徴したものと思われる。海洋の生物および地上の植物と一体化したテテュス、もしくはタラッサの図像は知られていない。しかしながら、生命に満ちたオケアノスの表現に近い作例は存在する。シリアで発見されたモザイクにおいて、聖使徒聖堂のタラッサとは異なり、量感を持って表されたテテュスの胸像には舵が添えられ、首には竜が巻き付く(325-350年、シャーバ博物館、図10)。彼女の髪からは魚が泳ぎだし、あるいは泳ぎ戻っているようにも見える。テテュスの背景には何も表されていないが、このパネルの外側を海と魚、船を漕ぐプットーが取り巻く。こうした作例を生命力豊かな海の表現と見ることができる(47)。植物を育てる水の表現に関しては、海ではなく大地がその手がかりを示す。同じ擬人像の表現であり、制作年代も近いことから、マダバのタラッサと比較し語られることの多いヨルダンのネボ山、司祭ヨアンニス礼拝堂の床モザイクに、女性の胸像として表された大地の擬人像ゲーは、果物の入った布を持つ(6世紀後半、図11)。その下方には、2尾の魚が向き合う形で置かれている。対面する魚と女性の胸像との組み合わせは、イングランド、ダラム大聖堂の所蔵になる絹の断片にも見られる(48)。モザイクのゲーとの類似が指摘されてきた、この布の図案には、自然の女神とされる人物と果物、魚や水鳥が表されている。この2つの作例から、魚はこれら女性像に付随すると推測され、両者はその特徴から、豊穣神デア・シリアに形を得たと考えられる(49)。デア・シリアは複数の名を持つが、この女神を表した作例のひとつと言えるアタルガティスの浮彫においては、玉座に座る豊穣の女神の足元に2尾の魚が表され、頭部に向き合う魚を載せた女神の彫刻も発見された(50)。この女神と魚との結びつきは、豊穣とそれを支える水を表すとも推測されてきた(51)。植物へと変わるテテュス、タラッサの作例は確認できないが、大地、豊穣の表現に添えられた魚は、水の生命力を異なる角度から表したものと考えられる。先に引用したサルディスの主教メリトンも、洗礼の必要性を語るにあたり、大地が雨や河川の水に浸されることで、豊かな実りがもたらされると述べた(52)。髪に魚を潜ませながら植物へと発展するオケアノス、果実を抱えつつ傍らに魚を置くゲーは、おそらくは大地とそれを潤す水が不可分の存在であること、そして両者の結びつきにより、新たな生命と豊穣がもたらされることを示すのではないか。オケアノスと並行関係にあるテテュス、タラッサも同様の役割を担い、多様な海の生き物を生み出し、さらに身を浸す者を浄める。マダバの聖使徒聖堂では生命を育む海、もしくは水の表象が聖堂の中央に置かれ、そこに「生命を与えよ」という寄進者の祈りが添えられていると言えよう。おわりに聖使徒聖堂の「タラッサ」のメダイヨンと銘文の結びつきを探るにあたり、タラッサと同様に海を表すテテュス、およびオケアノスの図像を参照した。最初にタラッサと同質と思われるテテュスの図像が、水にちなむ場に多く配されてきたことから、この主題が単に海を表すのみならず、水の表象とも考えられることを確認した。次に洗礼が水と生命のつながりを顕著に示す儀式であることから、教父の言説の中で、この結びつきに言及したものを数点検討した。水は浄化するのみならず、生命を与える働きを持つと考えられており、海水・淡水の違いも特に意識されていなかったと推測される。水の賛美に陥るのを警戒し、距離を置こうとする動きは、当時の人々がともすれば水を讃える傾向にあったことを想像させる。最後に、時にはテテュスと共に表され、同様の場所に置かれてきたオケアノスの図像に植物と一体化したものがあることに注目し、分析を行った。海の生き物だけではなく、大地を潤し植物を育む、生命の源としてのオケアノスの表現がなされてきたことを、いくつかの作例から検証した。以上の検討により、海と水を想起させるタラッサの図像は「生命を与えよ」という願いを託すのに適切であることが確認された。海の塩水と川や湖の淡水を区別せず、オケアノス163