ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL後半とは、両修道会の議論が最も激しく展開された時期にあたる。そもそも、なぜ既に社会に深く浸透していた「無原罪の宿り」の教えを視覚化する必要があったのだろうか、また、「無原罪の宿り」の一義的図像は何を目的として制作されたのだろうか。本稿は、以上の二つの問題を考察の柱とし、「無原罪の宿り」の教義史における図像と神学の関係と機能について論じる。更に、図像が個人の祈りに留まらず芸術的価値をもつものになると、本来図像が担うべき機能と役割に変化が認められるようになることを確認する。1中世の霊性とシンボル思考宗教において図像やイメージが教育的効果をもたらしてきたことは、広く認められている事実である。その意義は、6世紀末の「図像は読むことができない人々にとって文章の代わりをする」との教皇グレゴリウス1世(在位590-604)のことばに確認される(3)。中世の精神は、目に見える事物をよりどころとして意味を読みとり、ことばでは言いあらわせない存在に祈りを捧げ、常に新たな形象を造り出した(4)。プリミティヴな精神は、事物であれ概念であれ、全てを天に投影した。すなわち、シンボル思考が想像力を高める働きをもつことと切り離し得ぬ関係にたっていたのである。例えば、サン・ドニ修道院長シュジェール(Suger, 1081-1151)は、僧院玄関上に彫られた浮き彫りについて次のように記している。金色に輝くこの門は、まことの光がいかに世に在るかを告げる。濁った魂は、形あるものを経て真実の高みに向かう。形に宿るまことの光を見るときこそ、魂は濁りに潜むことをやめ、高みへと導かれる。(5)また、両修道会の説教においては実際にシンボルやイメージが用いられた。左胸にイエスの名を刻んだハインリヒ・ゾイゼ(Heinrich Seuse, 1295/1300-1366)、説教の際に青地に金色の文字を記した板を掲げたシエナのベルナルディーノ(Bernardino daSiena, 1380-1444)は、自らの敬虔な心の表れを視覚化した。ところで、中世の人々のシンボル思考については、ホイジンガが『中世の秋』の中で、日常生活と宗教を結びつけようとする思考のあり方とそこに介在するイメージと象徴について取り上げ、説明している。論述によれば、中世においてはイメージの一つ一つが全体を包括する象徴主義の巨大な思想体系のうちにはめこまれ、いかなる事物もその意味は、存在の糸をたどればかならず彼岸の世界につながると考えられていた(6)。事物すべてを神のうちに見、すべてを神に帰せしめるとき、人々はごくありきたりの事柄のうちにも優れた意味の表れをよみとる。従って、中世のシンボル思考は実念論と結ばれ、プリミティヴな思考様式そのものであった。また、それは広く文化一般に固有の傾向であり、何かを想像し考え、その結果得たものを芸術に、日常生活に、道徳に表現していく人々の精神を強く規制していた(7)。象徴とは、因果論の立場からみるならば思考の短絡現象ともいうべきものである。事物間の関連をさぐるのに、相互間に隠されている因果関係を辿ることなく突然飛躍してその関連を見出す。しかも、それは原因と結果ではなく、意味と目的の関連である。二つの事物が何かしら似ているという連想が、直ちに本質的、神秘的関連という観念に転化し、固有性の共有を理由に二つの事柄を象徴的に同一視する。これを可能とするのは、二項をつなぐ共通特性が、双方が共有する本質を含んでいる場合に限られる(8)。すなわち、問題となるのはその関係であり、二つの実質的に違うものの間にある潜在力なのである。確かに宗教芸術におけるイメージ使用は、スコラ哲学の中でも正当化されている(9)。例えば、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1224/25-74)は聖書におけるイメージの使用について分析し、論じている(10)。また、パリ大学のジェルソン(Johannes Gerson, 1363-1429)は、「我々は、可視的なものから不可視のものへ、肉体的なものから精神的なものへと心の中で超えることを学ぶべきであり、これがイメージの目的である」と述べている(11)。神学は教育的機能としての図像の存在意義をみとめ、一方で、本来の図像の役割から逸脱させながら効果的に利用していったといえる。全てがキリ172