ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

「無原罪の宿り」の視覚化―図像と神学の関係と機能をめぐって―スト教に覆われていた西欧中世社会において、象徴は豊かなイメージ群を創り出した。更に、図像芸術はこれを表現し、魂の深奥の直感がことばに表し得ないものの認識へと高く思想することを可能にする余地を残した(12)。ホイジンガによれば、中世において芸術はある社会的機能を果たしており、芸術作品制作の動機はそのテーマと目的にあった。テーマにおいては何がしかの生活形式に役立つかどうかが問題であり、目的は実際的な性格のものであった。例えば、祭壇画は会衆の神観想の炎を燃え立たしめ、一方で、寄進した者を記念する目的を担うものとされた(13)。寄進者は祭壇画の前景に自身の姿を描き込ませ、敬虔な心を表わし祈念した。2「無原罪の宿り」と神学2-1神学の介入と論争について「無原罪の宿り」の問題は、東方教会を起源とするアンナ懐胎の祝日が西方に継承されたことに由来する。原罪が大きな問題となる西方では、アダムの子孫と神の母という二律背反的な問題から、マリアのお宿りの祝日を祝うべきか否かの問題に発展した。多くの教父や神学者は、祝日とは聖なるものを祝うべきであるとの理由からこの祝日の存在を否定した。更に、「無原罪の宿り」の教えに神学が介入し、原罪と恩寵の関係が持ち出されると、議論の中心は祝日の問題からマリアの「聖化」(sanctificatio)の時期に移された(14)。スコラ全盛期において、多くの神学者はトマスに代表されるように、「キリストは全人類の贖い主である」という普遍的な理由により、たとえ神の母であれ人間であるマリアは原罪をもったと考えた。マリアは母胎内で「聖化」され、誕生時には原罪をもたなかったとのトマスの解釈をドミニコ会は正式に認め、「無原罪の宿り」に反対の立場をとった。一方、「無原罪の宿り」が広く信じられていたと考えられるフランシスコ会内でも(15)、ヘールズのアレクサンデル(Alexandri deHales, c.1185-1245)やボナヴェントゥラ(BonaventuraeBagnoregis, -1274)などの神学者は、マリアは原罪をもったという見解を示した。しかし、14世紀初頭、フランシスコ会のヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus, 1265/66-1308)が、それまで多くの神学者が「無原罪の宿り」を否定する根拠とした「キリストは全人類の贖い主である」ことに逆に基づき、「無原罪の宿り」の可能性を導くと、教義史は大きな転換点を迎える。スコトゥスの論証は、他の人間と同様に、キリストの贖いによりマリアの無原罪懐胎がなされる可能性を論じるものである。スコトゥスは原罪からの清めを意味する「聖化」という考え方を用いず、キリストは原罪を取り去るのではなく、マリアが原罪をもつことのないように、あらかじめ原罪から保護するという新たな見解を示した。また、それは神には可能であり、神の母となるマリアに帰するにふさわしいと考えるものであった(16)。フランシスコ会はスコトゥスの理論を擁護し、スコトゥス派や説教活動を中心に教えの布教に努めた。スコトゥスの理論は、マリアの存在は創造の初めからあらかじめ計画されていたと解釈され、「予定説」として認識されていった(17)。しかし、スコトゥスの論証をもってしても両修道会は妥協点を見出すことなく、議論は継続する。特に15世紀後半以降、議論は激化し論争へと発展するが、その伏線となったのは、個人的に「無原罪の宿り」の信心をもつフランシスコ会出身のフランシスコ・デラ・ローヴェレの教皇登位(シクストゥス4世在位1471-1484)であった。シクストゥス4世は1477年(教皇庁記載年は1476年)の教書『クム・プラエエクセセルサ』(Cumpraeexcelsa)により、12月8日の「無原罪の宿り」の祝日を公認した。また、レオナルド・デ・ノガロリス(Leonardo de Nogarolis)の祈りを採用、スコトゥスの意見に自由に従うことを認めた。この教書は、教皇によるマリアの無原罪懐胎を支持する最初の公的決議である。更に、1480年にはベルナルディーノ・ディ・ブスティ(Bernardino de Busti)の聖務日課とミサを追認するが、これら一連の教皇の行動は論争の激化を招いた。そのためシクストゥス4世は、1483年に教皇令『グラベ・ニミス』(Grabe nimis)により、終生処女マリアのお宿りの祝日を公に祝うことと特別な聖務日課をさだめ、スコトゥスの意見を公認、この教えを述べる者を異端として破門とすることを禁じた。しかし、両修道会の論争は、16世紀半ばのトリエント公会議において「原罪についての教令」が出されるまで収拾がつかなかった(18)。「無原罪の宿り」に限定すれば、結果的にドミニコ会はフランシスコ会に敗れたが、173