ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALトマスをはじめドミニコ会がマリア崇敬に篤かった事実は敢えて指摘しておきたい。2-2「無原罪の宿り」の祝日の2つの祈り1477年以前において、マリアのお宿りの祝日には「無原罪の宿り」としての特別な聖務日課やミサは存在しなかった。そのため、祝日の典礼は9月8日のマリア誕生の祝日に準ずるものであった(19)。従って、シクストゥス4世により1477年に公認されたノガロリスの祈りは、「無原罪の宿り」の祝日の祈りとして公にされた初めてのものであった。テキストは『シラ書』24章を基本に構成され、一部はシクストゥス4世自身が記したとも伝えられている(20)。知恵文学の一つに含められる『シラ書』(もしくは『ベン・シラの書』)は、教会ではエクレシアスティクス(Ecclesiasticus)、『集会の書』とよばれている(21)。本書は旧約聖書外典または第2正典の一つに数えられ、ユダヤ教およびプロテスタントにおいては正典のうちに数えられないが、カトリックはトリエント公会議において正式に正典と認めている。マリアの処女性を暗示する典拠は基本的に『イザヤ書』や『雅歌』などに求められるが、いずれも「無原罪の宿り」を限定するものではなかった。しかし、『シラ書』は「無原罪の宿り」の含みをもつものとして受け入れられていた。『シラ書』が最初にマリアの無原罪性と関係づけられたのは9世紀であり、アリウス派への勝利という含みの中であったと伝えられる(22)。一方、フランシスコ会が「無原罪の宿り」の典拠として『シラ書』を最初に採用したのは、フランシスコ会のレクトールを務めたスコトゥス派のペトルス・トーメ(Petrus Thomae)である。そのトーメが手本としたのは、フランシスコ会士ペトルス・アウレオリ(Petrus Aureoli)の『懐胎についての詠唱』( Tractus de conceptione)(1315年)であった。アウレオリはスコトゥスの論証を誇張し、腐敗しない肉体は腐敗しない魂を前提にしており、もし処女が汚れをもっていたならば、処女によって表される教会も汚れていると唱えた。また、アウレオリは「無原罪の宿り」を結果としての「聖母被昇天」から容認しているが(23)、この主張はその後のマリア図像の発展に大きく影響を及ぼしていったと思われる。1320年、トーメは、マリアは全ての被造物の中で最初に創られるという特権を与えられ、神の創造物の中で「最初に生み出されたもの」であるとした。加えて、もし処女が原初の正義をもたなければ、すなわち神の恩寵に満たされていなければ(24)、『シラ書』のテキストが教会で読まれることはないと論じた(25)。トーメの考察は、1387年、ソルボンヌでの処女についてのドミニコ会士との論争において採用され、その後1439年のバーゼル公会議において「無原罪の宿り」の公認に向けて意見を述べた、トレド大司教ジョン・セゴヴィア(Juan de Segovia)のテキストに引用された。この公会議において、「無原罪の宿り」は承認に向けての同意を得たものの、公会議自体の問題により公認には至らなかった。そのため、フランシスコ会は公会議後も引き続き討議を重ねるが、その場には、後のシクストゥス4世となるフランシスコ・デラ・ローヴェレが参加していた(26)。その事実は、「無原罪の宿り」の祝日の祈りに『シラ書』24章を根拠としたセゴヴィアのテキストが引用された理由を説明するものであろう(27)。このような経緯を辿り、『シラ書』は「無原罪の宿り」と結びつくものとして認められていく。注目すべくは、哲学的理論という後ろ盾を得たフランシスコ会が、それでもやはり聖書のことばに典拠を探したという点にあろう。また、1480年に追認されたブスティの「無原罪の宿り」の聖務日課とミサには、エアドメルス(Eadmerus Cantuariensis, c.1060-1128)の論文の一部が引用されている(28)。エアドメルスの論文『聖母マリアのお宿りについて』(De Conceptione sanctaeMariae)は、「無原罪の宿り」の祝日再開のため1125年頃執筆されたものである(29)。しかし、この論文は当時カンタベリーのアンセルムス(Anselmus Cantuarensis, 1033/34-1109)の著作として流布していたため(30)、おそらくスコトゥスもシクストゥス4世もアンセルムスの著作として認識していたはずである。神はマリアを神の母としてふさわしいようにはじめから計画していたと論じる内容は、すでに13世紀にはマリア誕生の祝日の祈りにも引用されていた(31)。一方、1477年以降はドミニコ会も12月8日の典礼に『シラ書』を採用したという事実は指摘しておかなければならないであろう。しかし、そのテキストはマリアの非無原罪性を示す「聖化」が強調され、創造の初めに原罪から保護されていたのはマリアの174