ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

「無原罪の宿り」の視覚化―図像と神学の関係と機能をめぐって―魂のみであり、肉体は「聖化」により誕生前に母胎内で清められたと説明された(32)。このような状況を可能としたのは、15世紀後半において「無原罪の宿り」は正式な教えとされるには至っていなかったためである。従って、「無原罪の宿り」の祝日と祈りの存在が両修道会の議論を激化させる原因となった背景からは、シククトゥス4世の教えの公認に向けての行動が、何らかの形で図像に影響を及ぼしたのではないかとの推察が十分成立しうるものと思われる。3「無原罪の宿り」の祝日の祈りと図像3-1一義的図像の成立以前先述のように、シクストゥス4世により「無原罪の宿り」の祝日の祈りが定められるまでは、マリア誕生の祝日とマリアのお宿りの祝日の典礼は同じものが使われていた。この事実は、同じことばから違う解釈とイメージが生まれる可能性を示唆している。先行研究に従えば、1477年頃にルッカで初めて「無原罪の宿り」に祭壇画が奉献され、それ以前において「無原罪の宿り」を主題とする図像の存在は確認されていない(33)。祭壇画が出現した時期が「無原罪の宿り」についての最初の公的決議がなされた年と一致することは、おそらく偶然ではないであろう。一義的図像の成立以前においては、「無原罪の宿り」は他の様々な主題を援用して描かれた。また、『ヤコブ原福音書』を典拠として、「ヨアキムとアンナの金門の出会い」や「マリアの誕生」など複数の題材の組み合わせによりナラティヴに視覚化された。特に、マリアのお宿りの祝日の典礼本図像には、マリア懐胎における母アンナの身体が強調された。あくまでも「無原罪の宿り」を否定しアンナの母胎内での「聖化」を主張するドミニコ会は、マリアの非無原罪性の視覚化に苦慮しながらも、アンナの子宮内のマリアを描くことで「聖化」の時期を特定し、視覚化させようと試みた。最初にマリアのお宿りの祝日の典礼本図像にアンナを登場させたのは、ドミニコ会であったと考えられることからも(34)、図像のもつ教育的機能を最大限に利用していたのは、むしろドミニコ会であったのかもしれない。一方、フランシスコ会はドミニコ会と類似した構図を用いながら、栄光につつまれたアンナと母胎内のマリアを描くことで、「無原罪の宿り」を表現し対抗していった。そして、いずれの場合にも、図像にはそれぞれの解釈を伝えるためのテキストが必ず併置されていた。3-2カルロ・クリヴェッリ作《無原罪の宿り》1492年、マルケ州ペルゴラにおいて「無原罪の宿り」を主題とする図像がフランシスコ会聖堂内に制作された。現在、ロンドン・ナショナルギャラリー所蔵のカルロ・クリヴェッリ(Carlo Crivelli,1430/35-1495)作《無原罪の宿り》(図1)は、図像的に後のティエポロ(Giovanni Battista Tiepolo,1696-1770)やムリーリョ(Bartolome EstebanPerez Murillo, 1617- 1682)などへの橋渡しとして重要な図像であると説明される(35)。本図像は複数のシンボルにより構成されており、一見しただけでその意味を理解することは難しい。中心縦軸上には1人立ち祈る女性、天上には地上を見下ろす神の姿、その間には一羽の鳩と2人の天使が捧げ持つ冠が描かれている。一方、横軸はラテン語の銘文が記された天使の持つリボンで天上と地上が分かたれている。図像の意味を理解する唯一の手掛かりであるUT INMENTE DEI AB INITIOCONCEPTA FUI ITA ET FACTA SUM(私が神の精神のうちで、はじめの時から懐胎されていた、そのように、私はなされた)は、『箴言』8章と『シラ書』24章に基づくものであり、この図像が「無原罪の宿り」を意味することを説明している。ライトボーンは、本図像はスコトゥスの予定説に基づいて制作されたと結論づけている。この予定説の表出により、「無原罪の宿り」図像は他主題の援用やナラティヴな表現から脱し、神の思惟の一瞬を描く図像へと変化したと思われる。神の計画のうちにあるマリアは、天国ではないが地上でもない聖域にただ一人存在しており、また、全ての人類に先立つ存在であるため、図像にはキリストも恩寵の仲介者としての聖人の姿も認められない。ライトボーンに従えば、15世紀後半、特にマルケ州においては、立ち祈るマリア図像は「無原罪の宿り」を表すものと考えられていた(36)。興味深いのは、ほぼ時代を同じくして「聖母被昇天」のマリア図像が坐像から立像に変化している点である。ここに、前章でたてた「無原罪の宿り」と「聖母被昇天」を原因と結果と考えたアウレオリの意見がマリ175