ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALア図像の発展に影響を与えていたのではないかという仮説が真実味を帯びてくるように思われる。同時に、《無原罪の宿り》が地方の小都市ペルゴラで制作されるに至った理由を考えることは、図像の制作目的を検討する上で重要な手掛かりを与えるものと思われる。当時マルケ州は教皇領の一部であり、ペルゴラがシクストゥス4世の出身であるローヴェレ家と深い繋がりをもっていた事実は考慮されるべきであろう(37)。また、マルケ州では古くからフランシスコ会の説教活動が盛んに行われており、そのため神学的図像が成立しやすい環境にあったとも考えられるであろう。当時、ペルゴラにはフランシスコ会の施設が配されていたという事実からも、クリヴェッリの図像はフランシスコ会説教者らの神学的助言に基づいて制作されたと考えるのが妥当であろうと思われる。因みに、本図像が制作された1492年は、シクストゥス4世による強硬な行動により、ドミニコ会の反論が激化した時期と重なっている。そのため、正式な教えではなかった「無原罪の宿り」図像は、敢えてローマを避けて制作されたという推論も成り立つのではないだろうか。以上を総括すれば、本図像が神学論争というコンテクストのもと、「無原罪の宿り」の祝日と祈りおよびスコトゥスの理論を公認したシクストゥス4世を称え、彼と縁の深い土地に「無原罪の宿り」の勝利を掲げ、フランシスコ会のプロパガンダを目的として制作された可能性は否定できないであろう(38)。因みに、本稿は、この図像はスコトゥスの理論を賛美するものとして制作されたと述べたチマレッリの意見に同意したい(39)。3-3ヴィンツェンツォ・フレディアーニ作《無原罪の宿り》1502年、ルッカのサン・フランシスコ聖堂においてヴィンツェンツォ・フレディアーニ(Vincenzodi Antonio Frediani)に注文された図像(図2)は、1480年にシクストゥス4世により公認された祈りの作者であるブスティの著作に依拠していると考えられている(40)。近年の古文書調査により確認された契約書によれば、「無原罪の宿り」を主題とした本祭壇画は、ルッカのサン・フランシスコ聖堂修道院長および当時説教活動でルッカを訪れていたフランシスコ会厳格派の説教者により注文されている(41)。契約書には金銭の受け渡し方法を含め、描くべき人物の選定やモティーフなど詳細な条件が記されている。まず、画面上部については、マリアが神の前に跪き、神が笏でマリアに触れるという『エステル書』4章11に基づく構図が指示されている(42)。『エステル書』の当該部分は、『サムエル記下』11章のバテシバとソロモンとともに「聖母戴冠」を予表するものとして考えられてきた聖書箇所である。実際にこの3つの主題が並列して表出されたタペストリーの存在も認められており(43)、当時、これらが同じ意味をもつものと認識されていたと理解できる。因みに、13世紀以降「聖母戴冠」は、死に勝利するものは原罪を免れているとの考えから、「無原罪の宿り」を意味するものと考えられていた(44)。ここで、ドミニコ会がノガロリスの祈りの一部を「聖化」とする内容に読み替えたテキストに添えられた挿絵が「聖母戴冠」図像であったという、先行研究の指摘は考慮されるべきであろう(45)。「聖化」を主張するために「聖母戴冠」図像を敢えて用いたドミニコ会の意図には、フランシスコ会への競合意識が明らかに認められる。更に、ルッカのフランシスコ会が「聖母戴冠」ではなく『エステル書』という聖書に典拠をもつ図像を用いた事実は、ドミニコ会への対抗意識のあらわれとみなされても不自然ではないであろう。一方、地上には、画面向かって左側にアンセルムスとアウグスティヌス(Augustinus, 354-430)、右側にダビデとソロモンが配される。中央に背を向けて跪く人物は契約書上ではスコトゥスが指示されているが、おそらく、当時スコトゥスが列聖されていなかったため、実際の図像はパドヴァのアントニウス(Antonio di Padova, 1195-1231)に変更されている(46)。図像は、スコトゥス(アントニウス)が銘文を記した巻紙をもつ4人の議論を調定しているように思われる。先行研究によれば、この構図は、1493年に出版されたブスティのマリアに関する説教を収めた書物『マリアーレ』(Mariale, sive Sermones63 de B.V. Maria)に記された「ミラノの小さな奇跡」に依拠するものであり、また、それぞれの銘文にはシクストゥス4世が公認したブスティの祈りが引用されている(47)。因みにルッカでは、これとほぼ同じ構図の図像がもう一つ、フランシスコ・フランチャ(Francesco Francia/Francesco176