ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

ページ
179/542

このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている179ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

「無原罪の宿り」の視覚化―図像と神学の関係と機能をめぐって―Raibolini, c.1450-1517)により制作されている(48)。先行研究に従えば、本図像は「議論」というカテゴリーに分類される(49)。「議論」は16世紀前半を中心として、人物の選択にさまざまなヴァリエーションが加えられながら、北・中部イタリアを中心に描かれた。因みに、本稿はアンセルムスとアウグスティヌスが選定されていることから推察して、複数存在する「議論」図像の中でも、特に本図像がスコトゥスの理論を忠実に表現していると考える。スコトゥスは、アンセルムスとアウグスティヌスの理論の中に自ら論証して行く上での重要な手掛かりを見出し、両者の見解を相互に強化補完し、統合を図りながら「無原罪の宿り」の可能性を引き出しているからである(50)。一方、本図像がブスティの祈りに依拠していると考えられる理由も、アンセルムスの存在に見出されると思われる。先述のように、ブスティの祈りはエアドメルスの論文を引用しているが、この論文は当時、アンセルムスの著述であると考えられていたからである。「祝日を祝うことを拒むものは、真にマリアを愛する存在として私は認めない(51)」という趣旨が記された巻紙からは、アンセルムスが「無原罪の宿り」の祝日の存在を認め、推奨していると判断できる。従って、この内容は本来のエアドメルスの執筆動機からすれば正しく、また、本図像がブスティの祈りに依拠しているとの見方も否定できないと思われる。しかし、実際には、アンセルムスは「無原罪の宿り」に対して直接言及はしておらず、むしろ、著書においては、マリアの無原罪性を否定する見解を示している(52)。従って、アンセルムスを「無原罪の宿り」の祝日を認めるものとして位置づけることは、本来は正しくないのである。以上の考察から、本図像は、スコトゥスの理論の正当性およびシクストゥス4世の定めた祈りの存在の誇示、更に論争渦中におけるフランシスコ会の勝利の視覚化とドミニコ会への対抗意識を目的として制作されたことは疑い入れないであろう。また、この見解を後押しするものとして、同時に制作されたプレデッラ(図3)の存在が認められる。現存する2枚のプレデッラの1枚には、ドミニコ会士とフランシスコ会士が反目する様子が描かれている(53)。4図像と神学―それぞれの機能以上、「無原罪の宿り」の歴史空間は図像とことばによって記録され、図像と神学は相互補完的役割を保ちながら教えの発展に寄与したことを確認してきた。最後にもう一度、図像と神学の機能について総括的に考察し、それを通して冒頭に掲げた二つの問いへの答えをもって、全体の結論としたい。「無原罪の宿り」の教義史において議論が視覚上の競合となって現れたことは、何よりも、神学の側が図像のもつ教育的役割を認めた結果に他ならない。そもそも、教理を認識するとは精神の力に余ることであり、教理は真理決定の力をもつ一階級の手に握られていた(54)。中でも、特に「無原罪の宿り」の教えは広く人々に共有されながらも、神学というごく限られた知識階級にのみ門戸の開かれた解釈が混同されている。従って、「無原罪の宿り」においては教えを覚えやすい仕方で掲げる必要があり、神学は視覚化という中世の人々の思考形成に最も適った方法で意味を伝える必要に迫られた。しかも、図像を用いて「無原罪の宿り」を否定したドミニコ会に対しては、フランシス会は必然的に図像を用いて対抗したのであり、「無原罪の宿り」の教えを視覚化せざるを得なかった理由はそこにあるのだろう。図像はその時代の状況に最もふさわしい解釈を示す。ホイジンガが指摘したように、象徴は別の手段では近づくことのできない相対的な実在を明るみに出す機能をもつものであり(55)、イメージが精神生活に必須な資であり、われわれはそれを決して根絶やしにすることはできない(56)。シンボルをあやつる想像力は、論理的に記述された教義のテキストにメロディーを添える音楽のようなものである。この伴奏がなければテキストは堅苦しく、きくに堪えない。(57)一方で、視覚化のもつ危うさも懸念されている。ホイジンガは日常において人々の信仰のゆるぎなさと直接性、親しみが風俗の中に根づいてしまうと危険が生じ、故意に信仰を汚すことにもなりうると指摘する(58)。ジェルソンも批判したように(59)、視覚化は宗教図像の本来の役割と機能からかけ離れ、正統な教えを歪め、異端的性格を含みうる場合もあ177