ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALる。例えば、図像内に母アンナが描かれた事実は、行き過ぎたアンナ崇敬を生みだした(60)。そのため、1563年のトリエント公会議において「聖画像についての教令」が出されるに至ったように(61)、神学や哲学に携わる者たちは常に世の動きを察知し、軌道修正していく必要があった。事実、トマスは実際的で瑣末とも思われる問題にまでも介入し、驚くほど真剣に考え言及している。確かに、哲学その他の学問は教理を思想へと高め、思考の形式を整える以外の機能は持ち得なかったのかもしれない(62)。とはいえ、図像を考察する上で、神学的解釈および哲学的理論をおろそかにすることはできない。特に、抽象的な概念が説明される場合、伝える側はモティーフの組み合わせやコンテクストの違いにより図像に様々な意味解釈を与えうる。そのため、受け取る側は図像解釈を歪めないために、図像にもたされた意味を正しく見極める必要がある。最後に、「無原罪の宿り」の一義的図像は何を目的として制作されたのだろうか。前章において、フランシスコ会のプロパガンダとして、また、教皇庁の権威を誇示するものとして一義的図像が制作されたと結論づけたように、純粋な宗教的動機以外のものがその動機の一部となっていることは認めざるを得ない。15世紀後半を起点として、「無原罪の宿り」図像は本来の宗教図像がもつ教育的機能を後退させながら、芸術の名のもとに価値あるものとして、また、実際的な役割と機能をもたされながら完全に社会的および政治的意図のもとに硬直していくように思われる。ヘーゲルのことばを借りるならば、芸術は既に、いかにしたら平信徒が神聖なものに与れるか、そのための条件を決定し設定するという教会の原理からはずれたところにあったのである(63)。われわれは、図像を通して時代を見、ことばを介して時代を知り、双方からの考察を通して教義史全体を眺める。それ故、図像は時代の様々な条件の複合体として見られるべきであろう。図像を作り出すものに伝える役割がもたされているように、観るものはそれを受けるにふさわしい態度を養わなければならない。イメージや図像が祈りのための補助的役割をもつものとして機能するためにはいくつかの条件が前提となっている。そして、その条件に適う者だけが真に聖なるものと向きあえるのであると、皮肉にも、「無原罪の宿り」図像はわれわれに教えているのである。本稿が取り扱ったのは、膨大な教義史のほんの一部にすぎない。しかし、「無原罪の宿り」図像の変遷は教義史そのものであると言えるのではないだろうか。(図1)カルロ・クリヴェッリ≪無原罪の宿り≫ロンドン、ナショナルギャラリー(図2)ヴィンツェンツォ・フレディアーニ≪無原罪の宿り≫ルッカ、グイニージ美術館178