ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

影の下の家―夏目漱石『門』と意識の流れ―を忘れることができる。新しい刺激が入ってきて、彼の過去の罪はFの位置から流れ去り始めたのだ。しかし、皮肉にもこの酒井との関係を通してまた過去の影がよみがえってくる。宗助は彼が裏切った友人の安井は実は酒井の弟の友人だと酒井から聞かされる。ここでまたアジア大陸と帝国主義の「影」が小説に入ってくる。安井と酒井の弟は今アジア大陸を冒険しているからである。そしてこの二人は酒井の家を訪れることになっている。つまり、宗助と御米の一番恐れている人間がまもなくとなりの崖の上の家に現れることになるのだ。彼らにとって、抑圧された過去の罪が現在に繰り返し現れる。そのため、宗助の意識の流れがまた滞る。過去の罪が彼の意識の焦点の位置に定着し、その位置から流れ去らなくなる。御米という「影」第十四章の回想シーンで、それまでに示唆されていた宗助と御米の過去がいよいよ説明される。このフラッシュバックの場面で、宗助が御米の元の恋人の安井を裏切った事件が語れている。宗助は当時京都の大学生で、ある日友人の安井を訪れると、初めて安井と同居している女の姿をチラリと目にする。この場面の描写には、御米は文字通りに「影」になり、そしてこの場面全体に影と光の関係が取り立てて全面に描かれている。「残暑がまだ強いので宗助は学校の往復に、蝙蝠傘を用いていた事を今に記憶していた。彼は格子の前で傘を畳んで、内を覗き込んだ時、粗い縞の浴衣を着た女の影をちらりと認めた。(中略)この影の様に静かな女が御米であった。」(十四の六)その後ある日宗助と御米が直接会って、初めて会話する。「宗助は極めて短かい其時の談話を、一々思い浮べるたびに、其一々が、殆んど無着色と云っていい程に、平淡であった事を認めた。そうして、斯く透明な声が、二人の未来を、何うしてああ真赤に、塗り付けたかを不思議に思った。今では赤い色が日を経て昔の鮮かさを失っていた。互を焚き焦がした焔は、自然と変色して黒くなっていた。二人の生活は斯様にして暗い中に沈んでいた。(中略)宗助は二人で門の前に佇んでいる時、彼らの影が折れ曲って、半分許土塀に映ったのを記憶していた。御米の影が蝙蝠傘で遮ぎられて、頭の代りに不規則な傘の形が壁に落ちたのを記憶していた。少し傾むきかけた初秋の日が、じりじり二人を照り付けたのを記憶していた。御米は傘を差した儘、それ程涼しくもない柳の下に寄った。宗助は白い筋を縁に取った紫の傘の色と、まだ褪め切らない柳の葉の色を、一歩遠退いて眺め合わした事を記憶していた。今考えると凡てが明らかであった。(中略)けれども彼の頭には其日の印象が長く残っていた。」(十四の八)物語りではこの時点から時間の流れが止まり、そして意識の流れも留まる。これまで、現在の刺激だけに関心を示していた宗助の意識が凍結してしまう。原因は御米という「影」である。ここでも「影」は二つの意味を持っている。意識の焦点として現れる光に輝く影と、焦点の周辺部にできる暗い影とを意味する。光と光がないこと、つまり「明暗」を意味する。ここで御米という影は同時に両方のFとfになっている。同じ影がFとfの両方の位置を同時に占めると、意識の流れが混乱に落ちいってうまく動かなくなる。小説の物語では個人の意識の流れと集合的な社会の意識の流れがこの時点から凍結してしまう。『門』に「影」という言葉が人物の意識や認識を描く場面によく使われている理由はここにあると思う。「影」は意識の焦点的印象も、その印象に付着する曖昧な情緒も同時に意味できる。「影」は同時にFとfになれる。「影」は現在の焦点も過去の感情も指摘する。「影」が現れるとFとfの区別が曖昧になり、そのため意識が滑らかに流れなくなる。「影」が意識を占領すると、時間の流れ、そして社交の流れ、意識の流れが混乱してしまい、将来が来なくなる。17