ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL「影」と所有制度最後に簡単にこの「影」という問題と所有制度との関係に触れておきたい。漱石の他の小説と同じように、『門』は財産や所有物に関する出来事によって物語りが展開する。主人公の宗助は近代の所有制度から追い出される存在として描かれている。例えば、崖の上に住む坂井が土地の持ち主であるのに対して、崖の下に住む宗助はただの借家人である。宗助が所有物の持ち主になれない立場は実は心理学と関係する。当時の新心理学は自己意識の根本的な構造を説明するとき、よく経済的な概念、とくに財産や持ち主との比喩を利用した。自我は自分の主体的な経験を所有する存在として想定されていた。これは政治学者のC・B・マクファーソンがいう「所有的個人主義」そのものである(16)。ジェームスの『心理学原理』(1890年)は特にこの傾向を示している(17)。そして、この傾向は意識の流れの観念と実は深い関係がある。意識が絶え間なく流動するなら、その連続性はどう維持されるかという問題が出てくる。もし意識が常に変わるなら、現在の「私」は過去の「私」と同じ「私」であることはどう保証できるか。この問題を解決するため、ジェームズはさらに比喩を導入し、二種類の「私」が存在し、その一つはそのもう一つを所有すると言っている。つまり、自我の連続性はある所有制度によって維持されているということだ。ジェームズの言葉をかりるなら、「我々の常識は、自我の統一はただ事後に確認された類似性や連続性ではないと主張する。本当の持ち主である純粋精神的なものに所有されることに関わっている」。過去の所有される自我と区別するため、現在の過去の自我を所有する自我を「考え」(the Thought)と呼んで、ジェームズはこう論じる(18)。「例えば、過去に存在した過去の自我の持ち主とは実質的にあるいは超越的に違うこの現在の考えが、その所有権を受け継いで、その法律上の代表者になるに過ぎないと考えたらどうであろうか。その場合、前の持ち主の死と自分の誕生が同時に行われ、生まれて始めて自己を意識すると同時にもうすでに過去の自我が自分の持ち物になっていることを発見し、過去の自我は野放しになることなく、その所有権は消えることなく連続的に所有される状態になるはずだ。」このように、ジェームズによると、意識の流れは所有権の引継ぎの過程である。「考え」(theThought)が現れる瞬間に、過去の自我の経験という所有物を引き継いで、そして次の瞬間さらに新しい「考え」が現れる瞬間に、前の「考え」とその所有物はすべてその新しい「考え」の所有物になる。これを漱石の(F+f)式に当てはめると、意識の焦点のFは意識の持ち主になり、そして前の瞬間のFが意識の焦点から下がった瞬間に、持ち主から持ち物へ変身する。でも意識の流れが上手く流れない場合、例えば『門』で描かれている宗助の場合、どうなるであろうか。ジェームズの心理学によると、その場合所有制度が崩れることになる。どれが持ち主で、どれが持ち物か区別できなくなってしまう。ある意味で、『門』の物語は自分の自我も所有できない主人公を描いているといえるだろう。実際に、物語の中で宗助は自我の所有権だけではなく、一般的な所有権も失っている。語り手によると、宗助は「相当に資産のある」(十四の二)家族の長男だ。しかし、亡くなった父親から譲られるはずだった財産の行方は、彼にとってとても謎である。宗助が知らない間に、父親から譲られるはずの財産のほとんどが叔父の手によって消えてしまう。結局、この物語の世界では自分の意識の流れが上手く流れなくなると、自分の自我の持ち主としての身分を失うだけではなく、あらゆる資産も所有できなくなるということであろう。明治民法の下では、ある家の財産は全部その家の家督の手に握られている。しかし、御米との罪によって家督の位置を捨てた宗助が何を持てるだろうか。友人の安井から自分の妻御米を奪っても、自分の妻が自分のものであるかどうかも確認できない状態に落ちいる。そして、御米が繰り返し流産や死産をしてしまうことが強調するように、彼は自分の引継ぎ者になる子供も持っていない。石原千秋が論じているように、宗助は「遺産管理能力の欠如と次代への継承を欠いているという二点で、二重の長男失格だと言えよう(19)。」『門』で漱石は近代所有制度のなかで主体になれない主人公を描いている。これは家の財産のレベルだけではなく、「影」につきまとわれている主人公の意識のレベルでも語られてい18