ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

ページ
207/542

このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている207ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

形而上学的室内の円環――ジョルジョ・デ・キリコと『八十日間世界一周』――できる、一切の存在者の中で最高の種類の者である。ヴェルヌはフォッグ氏の旅について次のように書いている。この紳士は旅をしているのではなく、一つの円周を描いているに過ぎなかった(25)。さらにニーチェの思想との関係で注目できるのは、この世界一周の旅が純粋に賭けのための賭けとして行われる点である。その意味で、この世界一周の旅は、フォッグ氏が「革新クラブ」で毎日行っていたホイストと相似形をなしている。そしてフォッグ氏は金のために賭けを行う人物ではない。また結果としてアウダというヒロインを得ることにはなるが、それはあくまで結果としてのことであり、この旅は元々何かを得るためになされるものではなかった(26)。この世界一周の旅は、それ自身のためになされるいわば真剣な賭け=遊戯(jeu)である。ここでもまた『ツァラトゥストラはこう語った』の次の一節を想起することができる。子どもは無垢であり、忘却である、一つの復活、一つの遊戯[un jeu]、一つの自力でころがる車輪、一つの第一運動、一つの聖なる肯定である(27)。フォッグ氏の八十日間世界一周という賭けは、円環を描く「一つの遊戯」であり、この点でフォッグ氏の精神は、ニーチェが語る精神の三つの発展段階「ラクダ」「獅子」「子ども」の中で最高のものである、永遠回帰を肯定する精神としての「子ども」に近づくのである。以上を踏まえ、「形而上芸術について」でデ・キリコが述べている「ロンドンの日曜日の午後のスペクトル的性質」「歩き回る本物の幽霊である一人の人間の憂愁」という表現を検討する。まずフォッグ氏は何故「幽霊」なのか。それは円環の体現者たる彼が「生の無意味」を認識しているからではないか。「生の無意味」とは、デ・キリコがショーペンハウアーとニーチェの思想に認める核心であり、それはまた形而上絵画理論の核心でもある。1919年のデ・キリコのテクスト「我ら形而上派……」によれば、ショーペンハウアーとニーチェが示した「生の無意味」を絵画に応用した点に形而上絵画の革新性がある(28)。この問題について筆者は別のところで考察を行っているので(29)、内容の重複を避けるためここでは要点だけ述べておく。「生の無意味」はショーペンハウアーとニーチェに共通するモチーフだが、その意味合いは異なる。そしてデ・キリコが立脚しているのはニーチェにおける「生の無意味」であり、それは形而上学的な物自体の不在を意味する。世界の究極的な根拠としての物自体の不在が明らかになったとき、全ては仮象となり、解釈となる。そのとき人間もまた仮象としての存在、いわば実体を欠いた「幽霊」となるのである。そしてこの「生の無意味」の極限形こそ永遠回帰である。ニーチェの遺稿には次のような一節がある。この考えを最も恐ろしい形で想像しよう。あるがままの存在、意味もなく、目的もないが、それでも不可避的に絶えず回帰し、無へと解決することもない。つまり「永遠回帰」。これこそニヒリズムの極限形。永遠の無(「無意味」)! (30)既に述べたようにフォッグ氏は永遠回帰の寓話的体現者として捉えることができる。永遠回帰の体現者としてのフォッグ氏は、つまり「生の無意味」の認識者であり、究極的な根拠を欠いた幽霊である(31)。そして、それ故にデ・キリコは、フォッグ氏に「憂愁」を見るのではないか。ニーチェ‐デ・キリコの文脈において、憂愁は「生の無意味」あるいはその極限形としての永遠回帰に結びついているからである(32)。ただし永遠回帰は必ずしも憂愁のみをもたらすものではない。デ・キリコは1936年、まさに「フィリアス・フォッグ」と題された次のような詩を発表している。彼は波打ち際に歩いて行った/「ボ・ル・テ・ィ・モ・ア・[ Baltimore]!」と彼は言った。/蜃気楼の中の蒸・気・船・[steamer]が/彼の忌わしい荷物を運んで行った(33)。荷物を持たないフォッグ氏は「軽い」。ニーチェにおいて永遠回帰の円環を肯定する者は「軽い者」である。あちこちへ身を投げ出せ、前へ、後ろへ、お前、軽い者よ!歌え!もはや語るな![……]お205