ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALる。すなわちエックハルトは、義なる者がなんらかの形で最終的に義となること、そして義となった人は自由であるから、神にすら仕えることがないということを述べているのである。しかし、あくまでも人間に過ぎない義なる者が、自由そのものであり(vriheit selber)神にも仕えることがないとは大胆な主張であると言わねばならないであろう。そこで本稿では、以上のような義なる者の自由が説かれる際にその理論的な基盤となっている様々な神学的思惟を、エックハルトのラテン語著作から追いたい。ラテン語著作において、エックハルトは常軌のスコラ学におけるのと同様(2)、義を或る種の徳(virtus)と捉えている。しかし、エックハルト思想にあって、義は徳としての側面を持つのみならず、本稿で詳しく見るとおり、義なる者に先立ち、義なる者を存在せしめている実体的形相としての側面をも与えられているのである。そしてこの実体的形相としての義の理解が、先に引用したドイツ語著作におけるような、義なる者の絶対的自由が説かれるにあたって、大きな役割を果たしていると考えられるのである。そこで本稿ではまず変化(alteratio)や誕生(generatio)に関するエックハルトの論に注目し、エックハルトが徳の誕生と実体的形相の誕生とを類似の過程として理解していることを指摘したい。変化や誕生に関するエックハルトの論を以下に概観する。徳と実体的形相との同一視エックハルトは『知恵の書注解』の内で、当時の自然科学的知見に基づき、自然的事物の誕生を説明している。すなわちエックハルトは、火が木材のような他の存在者に燃え移るという事態を例にとり、この事態を火の実体的形相が木材へと移行した結果であると理解するのである。そしてその際、エックハルトはこの移行過程をさらに二つの段階に大別する。その第一は変化(alteratio)の段階であり、この段階において木材は未だ火の実体的形相を完全に受容してはいない。それゆえ木材はこの形相に抵抗し、例えば黒い煙をあげたり、爆ぜたりし、抵抗と矛盾[とを表わす]つぶやき(murmur resistentiaeet contrarietatis)をあげる。しかし、変化が終了したとき木材は火の実体的形相を完全に受容して火となったのであり、(3)誕生した火は元の火と少しも変わらない火の業を為す(4)とされる。以上が第二の段階、すなわち誕生(generatio)である。以上の火の例を一般化する形で、エックハルトは『知恵の書註解』第181節において次のように述べている。すべての働くものは別の自分自身を目指しており、それに到達するまでは骨折りがあるのであって、それというのも、すべての非類似性や不完全性は重荷であり、苦いものだからである。もしそれが自分を初めて別の自分にするならば、働くものにとっても、働きを受けるものにとっても、それらのすべての働きは甘美なものとなり、それらの間には争いの苦さはなく、甘さと甘美さがあるのみであろう。(5)存在者が別の自分自身を目指して働き、その状態に到達するまでは、「骨折り」(labor)、すなわち実体的形相に対する抵抗があると語られている。これが変化の段階である。しかし一度自らに類似のものとなった暁にはそうした抵抗がやみ、「甘さと甘美さ」(dulcedo et suavitas)があるとされる。これが、変化に続いて生ずる誕生の段階である。エックハルトは以上のように、自然的事物の間における実体的形相の授受に関して変化および誕生という二つの段階を認めているのであるが、この変化から誕生への移行過程は、徳(virtus)についても該当するとされてくる。すなわちエックハルトは『ヨハネ福音書註解』第141節からの箇所において、「自然的事物の真理とその固有性」について、変化の目的が形相を伴った完全な事物の誕生に他ならないことを述べたのち、次のように語るのである。しかし、自然的なものにおいて実体的形相に関して、変化と誕生について言われたこと、このことと同様のことが、道徳的なものにおけるさまざまな習慣と徳の誕生についても当てはまる。というのも哲学者たちの間では、実体的形相と徳の誕生について、同様の意見の相違があったからである。そしてアヴィケンナは、徳が事物の実体的形相と同様、さまざまな形相を与える者から存在するのであるとし、実体的形相と徳とを同一視している。(6)22