ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

エックハルトにおける形相(forma)の理解-義(iustitia)と義なる者(iustus)との関係をめぐって-た子の業ではなく、生む父の業でもなく、傾自然的事物の変化や誕生に関して、変化の目的は実体的形相を獲得することに他ならないのであるが、エックハルトはアヴィケンナの議論を権威として(7)、「道徳的なものにおけるさまざまな習慣と徳の誕生」すなわち人間における徳の誕生についても事態は類似していると言うのである。ではエックハルトの考える徳の誕生過程とは、具体的にどのようなものか。『知恵の書註解』第100節では、火と木材との関係について次のように語られている。父は、すなわち生む火(ignis generans)は、確かに変化のうちに、あるいは、変化したもののうちにあるが、そこに留まることはなく、いわば客であって、そこに腰を落ち着けることはない。それゆえに、そこには、火の相続人もいなければ、子もいない。しかし、生まれた火(ignis genitus)のうちで、それは留まっており、そこではもはや、それは点火されたものの業をなすことはなく、火の業をなす。したがって、こう言われている。「私のうちに留まっている父が業をなす」。(8)木材が火の実体的形相を受けることで変化し、新たに「生まれた火」が誕生する、という実体的形相の授受が言われている。エックハルトの例に即して言えば、木材の内に受容された火の形相が、父のように火の業をふるうのである。ところが、これに続けてエックハルトは次のように語る。さらにその上に、このことは、道徳的なことがらにおいては、例えば、徳の習慣や徳への傾向性や徳そのものにおいて見ることができる。これらの三つの間の関係は、生む形相と生まれる子孫と変化の関係と同じである。すなわち、習慣はいわば、内部にとどまっている父であり、徳という子孫が有徳的に働き、喜んで何の困難もなく、徳の業をなす。しかし傾向性については事態は異なっており、これは、それ自身の内にとどまっている父の業、すなわち徳の業をなすのではなく、いわば過ぎゆくものの業をなすにすぎない。それゆえに、それがなす業は、何らかの困難と抵抗を伴っており、その上に、それは父から生まれかせる父の業である。したがって、すべてのよきものや徳のさまざまな固有性や完全性、例えば、容易に、すばやく、喜びを伴って働くことは、いまだ到来することはなく、それらは子孫ないし生まれた子における父の業である。(9)まずはじめに、「徳の習慣」(habitus virtutis)、徳への「傾向性」(dispositio)、「徳そのもの」(ipsavirtus)という、徳論における三つの要素が挙げられ、これらの間の関係は、「生む形相」(forma parturiens)、「生まれる子孫」(proles parta)、「変化」(alteratio)という、自然的存在者の変化や誕生における三つの要素の間の関係と同様であると語られる。具体的には、その次の文に書かれてあるとおり、「徳の習慣」が「生む形相」と、「徳」が「生まれる子」と対応するとされているのであって、それゆえ残りの要素、すなわち「徳への傾向性」は、「変化」に対応するのであろう。つまり、ここでエックハルトが想定しているのは、木材が火へと変化する過程と相似した、徳の修練の過程なのである。どういうことか。人間が「徳への傾向性」に留まっている場合、つまり、徳の保有を目指して修練を重ねている段階にあっては、未だ「徳の習慣」は人間の内に生じていない。この段階は、木材の内に火の形相が未だ生じない変化の段階と類似であって、それゆえ「徳の傾向性」は「変化」に対応すると語られる。さらに、「徳への傾向性」がふるう業は、火のつきかけた木材が燻るのと同様に、「何らかの困難と抵抗と」を伴う。これに対して、一度「徳の習慣」が人間の内に誕生した場合、その習慣は、火の内にあって働く火の形相のように、「喜んで何の困難もなく」徳の業をなす、と言われているのである。以上、エックハルトが実体的形相の誕生と義のような徳の誕生とを類似の過程として理解している点を確認した。エックハルトはこうした理解に沿う形で、通常のスコラ学において徳であるとされる義を実体的形相と同列に扱っていく。すなわち以下に見るように、義は単なる徳であるに留まらず、義なる者の内奥にあって、義なる者である限りにおける義なる者をあらしめている原因、もしくは始原と捉えられていくのである。この様子を論ずるにあたって23