ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

現在、あらためて≪人文学≫を問う的所産を介して、間接的に再認識しようとする活動である。自然科学や一部の社会科学が、原初的・直接的な認識としてのギグノースケイ(??????????)という性格をもっているとすれば、人間の精神活動の産物を対象とする人文知は、むしろ再認識としてのアナギグノースケイ(???????????????)という特徴を有している。なぜなら、後者は通常、何らかのメディアを通じて伝達された過去の痕跡を手掛かりに、歴史の不可逆性と一回性とに規定された過去の人間の自由な精神活動の所産を、追体験的に再構成してふたたび認識へともたらそうと努めるからである。それゆえ、人文学は「認識されたものの認識」という自己再帰的な、多重的な入れ子構造をその特質とする。その際、ドロイゼンやディルタイが言うように、人文学は自然科学と違って、≪説明≫(Erklaren)ではなく、主に≪理解≫(Verstehen)という認識方式に依拠する。つまり、人文知は「解釈」による「理解」という読解の技術を必要とする間接知なのである。しかし自然科学的な直接知であれ人文学的な間接知であれ、このような学知が可能となるのは、実は人間存在のロゴス的(言語=理性的)構造――「ゾーオン・ロゴン・エコン」(???????????????????) (20)――によっている。カッシーラーはこれを「シンボルを操るもの」(animal symbolicum)として読み解いたが、人間存在のかかる言語=理性的な特質ゆえに、人間の精神活動とその所産として文化が可能となり、神話、宗教、言語、芸術、歴史、科学などの営みが成立するのである(21)。もちろん、「シンボルを操るもの」と「認識されたものの認識」という、この二つの理論だけで事足れるというほど簡単な話ではないが、拙著で試みたように、まったく異質なこの二つの学説を掛け合わせると、かなり筋の通った人文学の像が浮かび上がってくるのではあるまいか。いずれにせよ、筆者が上梓した『人文学概論』は、カッシーラーの『人間―シンボルを操るもの』とベークの『解釈学と批判―古典文献学の精髄』を主軸に構想された一つの試論であり、この二つの著作から決定的な示唆を得ている。これに比して、サイードのいう「文献学への回帰」(22)は、全体の輪郭がほぼ定まったあとで目に留まったにすぎず、彼からの影響はそれほど強くない。筆者が「文献学への回帰」を唱える場合には、第一義的にはベークのいうフィロロギーを念頭に置いていることを申し添えておきたい。「東洋系」と「西洋系」の別を超えて以上、人文学について述べてみたが、これはあくまでも一洋学者の眼から見た人文学にすぎない。日本を含む東アジアの人文学の立場からは、おそらく異なった光景が見えると思う。これについては、その分野の専門家に教えていただくとして、筆者としては、最後に、わが国の人文学における「東洋系」と「西洋系」の問題について一言述べておきたい。すでに『歴史と解釈学―《ベルリン精神》の系譜学』において述べたことであるが(23)、明治から昭和初期までのわが国の知識人たちは、実に幅の広い教養を身に着けていた。彼らの多くは東洋的伝統と西洋的伝統の両方に通じ、古文や漢文を読みこなすと同時に、ヨーロッパ起源の複数の外国語に精通していた。例えば、京都帝国大学教授の原勝郎(1871-1924)は、専門は西洋近世史でありながらみずから名著『日本中世史』(1906)を著し、また日本通史の本を英語で出版している(24)。また昭和初期の名著『日本文化史序説』(1931)を著した西田直二郎(1886-1964)は、ヨーロッパとくにドイツの歴史学と対決しながら独自の方法論を確立し、それをもって日本思想史の分野に記念碑を打ち立てたが、このようなことは戦後の思想史家の容易になしえないところである(25)。若いころにかろうじてその謦咳に接する機会のあった西谷啓治(1900-90)や吉川幸次郎(1904-80)なども、西洋と東洋の思考の懸隔を乗り越えて、自由自在に語り合える共通の幅広い教養の持ち主であった(26)。拙著のなかでも取り上げた、『洛中書問』における大山定一(1904-74)と吉川の翻訳をめぐるやりとりも、戦前の知識人のそうした幅の広さを例証する一例である。それとは対照的に、わが国の戦後の知識人は、一般的に、東洋系の学者は東洋のことのみを扱い、西洋系の学者も西洋のことのみを論じている。もちろん、学問がどんどん専門化してきているので、東洋と西洋の両方の知的伝統に掉さすことは限りなく難しく、また哲学・歴史学・文学の諸領域を分野横断的に学ぶことも、もはや現実的には不可能である。にもかかわらず、このようなあり方は克服されなければならない。グローバルな時代だからというわけではないが、とくにわれわれ日本の知識人は、東洋系と西洋系の251