ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

『百科全書』における政治的徳の言語臣民は、至高の主の似姿そのものとして、君主を敬い、畏敬し、恐れなくてはならない。この至高の主は、天においてあの輝かしい光の傑作によって眼に映るのと同様に、みずからが地上で臣民たちの眼に映るよう意志されたのであろう(17)。絶対主義体制のイデオロギー的前提である神権理論、すなわち神の意志と王権との連続性がここでは強調される。しかしディドロが行うのは、この連続性の論理そのものの消去と、両者の切断なのだ。臣民は神の姿が地上にあって、眼にみえることを望んだが、その媒介者として君主に畏敬の念をいだくこと(DPV, V, 544)。神の意志と主権は切断される。もはや神の意志が地上に政治的権威を打ち立てるのではない。神を君主=主権に見いだそうと意志するものは、いまや人民である。人民の意志が服従の条件になっているのである。神権理論との近接とみえたこの箇所は、実は神権理論の基盤そのものの掘り崩しである。以上のようにみると、この箇所を主たる根拠にして、ディドロを絶対主義支持者とみなす従来の解釈は、誤謬といわざるをえない。アンリ四世における意志の分有――討議的統治では、ディドロによるこれら後半部の引用文の選択にはいかなる理由があったか。国王の「証言」を長く引用することによって、何が意図されたのだろうか。この項目がなにゆえに書かれたのか、時代状況におけるこの項目の位地を考察するのに、この問いは重要な意味をもつ。実際にそのような観点から『回想録』のテクストを再検討すると、興味深い事実が明らかとなった。ディドロはこれらの引用文を、共通の顕著な主題的な特徴をもつ二つの箇所から選び採っている。ではそれは何か。それはいずれも、未曾有の国難に遭って統治が大きく揺らぐ危機的な状況の中で、フランス国王アンリ四世が合議体を開き、臣下と衆議と和合を図る場面なのである。説明しよう。一方は財政支出の超過により破産の危機にあった国家が、1596年に名士会議を召集、高等法院も説得して売上税(パンカルト)の導入を決めた際の状況である。国王の会議の席での言葉をディドロはシュリから引用している(DPV, V, 541-542)。王の演説の内容は、絶対的統治ではなく、秩序的統治における権威の例証となっている。王の権威は法によって限定を受ける(「諸王は二人の君主、神と法をもっている。正義が玉座に君臨しなければならない。優しさがそのかたわらに座をしめなければならない」)。主権者の意志は言葉を持って分有されねばならない(「誤り…それは君主が全臣民の生命と財産の主であり、また『予の意はかくのごとし』という数語によって自分の行為の理由も明示することも必要としないし、その理由のあることさえ必要としないという点である」「先王たちのように、予の意志に盲目的な賛同を強いるために諸公をここに召集したのではない」)。議会の参加は自由に公衆に向けて開かれている(「「王の意図は、いかなる身分、地位のものであろうと、あらゆる種類の人びとが自由に議会に参加できることであった。それは学識才能のある人びとが、公共福祉のために必要と思われることを、なんの恐れも感じないで、議会に提案できるようにするためであった。国王はその時、代表になんらの制限を加えることをやはり主張されなかった」)。王と議会の言葉は交換され、分有される(「予が諸公に集合を命じたのは、諸公の助言を受け、それを信じ、それに従うためで、一言でいえば、諸公の後見を受けるためである」)。ここでは多様な諸意志が自由に競合する(「諸公は予が義務を果たすよう激励され、予は諸公が義務を果たすよう激励をおくる。たがいに競い合おうではないか」)。続いて引用される箇所はどうか。1598年のナント王令の公布の後に続いた国内の長期政治的混乱が、翌年ついに終結する。ディドロが引用する演説は、宗教問題により国内を分断した政治的危機がようやく回避され、国王会議においてアンリ四世がおこなった国王演説である。ここでもまた、テクストには多様な「意志」とそれを表明する言葉が書き込まれる。パリ高等法院による王令登録拒否に始まった国内の長い分断状況は、1599年2月の王令登録においてついに解決する。王の言葉が合議体の中で聴き取られ、分有されるさまがそこでは次のように記される。「予は対外平和を確立したが、王国内にも平和4 4をもたらすことを意志する」。王は王令を発し259