ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

ページ
267/542

このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている267ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

日中両国における人文学の概念形成とめた桑原は、1907年4月より2年間、文部省の命をうけ中国へ留学した。帰国後は、内藤湖南とともに、京都帝国大学文科大学史学科の東洋史講座の初代教授をつとめた。ジャーナリズム出身で、清朝考証学を評価し、「支那学」をうたった内藤に対し、桑原が「科学的」な見地から、清朝考証学に批判的態度をとり、「東洋史」の名称にこだわるなど、両者の学風は多くの点で対照的であった。【資料1】羽田享による桑原隲蔵『東洋文明史論叢』の序、1934年「我が国に於て、学術に関する論文中にこの脚注を多く用ゐることは、本來欧洲学界に於ける体裁を受け入れたのであることは言ふまでもないが、内外博覧の博士は、欧洲の東洋学者中でも特に独逸の学者の間に多く認められる此の種の整つた論述の形式を賞讃せられ、論文の形はかく有りたいなどと語られたことから考へても、この方面から受けられた影響も少くなかつたと思はれる。」【資料2】宮崎市定による桑原隲蔵評「博士はよく「歴史の研究とは、事実をきめていくことだ」といわれた。歴史学の上では、一歩一歩、動かない事実を確かめた上でなければ、研究成果を積み上げていくことができない。いわんや誤った認識の上に立って、どんな議論をしても役にたたない。だから博士はしばしば中国の在来の学風の不正確さを批判して、「中国人の学者は頭が悪い」とまで言われた。…博士はまた「自分のやっていることは東洋史であって、シナ学とは違うものだ」と明言しておられた。そこで昭和五年、博士が還暦を迎えられた時、知友門人が集まって各一篇を草して献呈した書名は、京都における伝統的な呼称にかかわらず『東洋史論叢』と題した。」(「桑原隲蔵博士について」桑原隲蔵『中国の考道』はしがき)「一見して無思想性と思われる自然科学も、実は偉大な科学者の思想によって指導され、その方向が決定され、その線上に沿って今回の如き隆盛を見るに至ったのである。桑原先生の歴史学も恐らく、このような信念の下に研究が進められたに違いない。そして当時における歴史学の共通な約束とは、坪井久馬三博士によって講ぜられた、ベルンハイム流のドイツ史学に外ならなかったと思われる。」(「桑原史学の立場」『桑原隲蔵全集』月報6)桑田は1917年3月、『太陽』に「支那学研究者の任務」と題した文章を発表した。中国語文献の読解能力はたいしたことない欧米の研究者たちが、注目すべき研究成果をうみだしているのはなぜか。その理由として、桑原は彼らが「科学的方法」にもとづき、分析していることをあげた。たとえば、漢代の「一里」がどのくらいに相当するかは、史料の記述と確定的な地点間における実際の距離をてらしあわせることで、約400メートルと推定が可能である。ただ、これら史料を活用するためには、まず史料批判をおこない、統一した分類、順序でまとめるなど、「整理」をおこなう必要がある。この桑原の文章は、ほどなくして中国の『新青年』第3巻第3号(1917.5)へと訳載された。【資料3】桑原隲蔵「支那学研究者の任務」『太陽』1917年3月「支那の書籍は、大体から見渡して、未整理の状態にある。之を利用する前に、先づ科学的方法で十分に整理を加へ、かく整理した材料を、科学的方法によつて、研究せなければならぬと思ふ。若し吾が輩の見る所に大なる誤がないならば、我国に於ける支那学研究には、この科学的方法が、まだ十分に利用されて居らぬ様である。甚しきはこの科学的方法を無視して居る様に、疑はれる点もある。科学的方法は西洋の学問のみに応用すべきものでない。日本や支那の学問研究も亦、勿論この方法に拠らねばならぬ。」「吾が輩の見る所に拠ると、我が国の支那史学者が、世界の学界に貢献すべき事業として、尤も適当なるものは、支那歴代の正史の整理に在ると思ふ。」この桑原の論文を読み、大きな感化をうけたのが、胡適であった。胡適の日記には、桑原論文について、「その大旨は、中国学を治めるのに、科学的方法を採用すべきというもので、至極まっとうな意見である」とし、「一里」を400メートルとした推定が、「歴史学の一大発見」と評価されていた。ま265