ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALた、中国の書籍が「整理」されておらず、利用に適さないとの意見にふれ、「『整理』とは、すなわち英語のSystematizeである」と記していた。この記述から、胡適にとって日本語の「整理」が、耳慣れない言葉であったことがよみとれる。胡適(1891-1962)現在の上海市浦東新区で生まれる。台湾で働いた父が日清戦争直後に亡くなり、母の女手ひとつで育てられた。上海の梅渓学堂や中国公学で学んだ後、義和団事件賠償金(庚子賠款)を基金としたアメリカ官費留学生として1910年、アメリカに渡った。当初、農学を専攻したものの、まもなく哲学に変更し、コロンビア大学でJ.デューイに師事した。1917年に帰国した胡適は、北京大学教授となり、陳独秀や魯迅らとともに、中国の新文化運動を担った。彼が『新青年』へ寄稿した「文学改良芻議」(1917.1)は、官話(文語)でなく、白話(口語)文を用いた新しい文学の誕生をうながした記念碑的作品である。また、『中国哲学史大綱』上巻(1919)は、三皇五帝の信ぴょう性や孔子と老子の事実関係を問うなど、実証主義の立場から古代中国思想を分析的、系統的に論じ、旧来のパラダイムを一変させる影響をもたらした。胡適は、儒学や古典文学、禅宗など、さまざまな史料の発掘、整理にもとりくんだ。彼が英仏で発見した敦煌の写本をもとに、編纂した『神会和尚遺集』(1930)は、鈴木大拙からも「極めて精緻な批評眼で材料を整理」したものと評価されている。駐米大使(1938-42)や北京大学校長(1946-8)、台湾中央研究院院長(1957-62)など、数々の要職も歴任した。1939年には、ノーベル文学賞候補にもノミネートされている。胡適は1919年12月、「新思潮的意義」と題した論文を『新青年』に発表した。中国における「新思潮」の根本的意義とは、「評判的態度」にほかならない。胡適は、この「評判的態度」を、F.ニーチェのいう「あらゆる価値の価値転換(transvaluationof all values)」にあたるものとし、中国旧来の学術思想に対しても、同様に「評判的態度」でのぞむべきことを主張した。彼によれば、旧来の学術思想に対する態度は、(1)盲従に反対する、(2)調和に反対する、(3)「整理国故」を主張する、の3種類に分けられるという。ここでいう「整理国故」とは、桑原が説いたように、古代の学術思想を、条理をたて系統的に「整理」し、「科学的方法」で精確な考証をおこなうことを指していた。「整理」という概念を用いていることからも、桑原の文章から大きな示唆をうけたと解釈できる。この胡適が提唱した「整理国故」は、中国の「人文学」がとりくむべき課題を端的に表したキーワードとして、人口に膾炙してゆくこととなる。北京大学における「史学」の形成科挙廃止にさきだつ1904年1月、日本の学制をモデルとし、新しい教育制度をさだめた「奏定学堂章程(癸卯学制)」が公布された。その「学務要綱」では、日本にならい「洋文」を習得する必要が唱えられ、「中国堂以上の各学堂は、必ず洋文の学習にいそしみ、大学堂の経学、理学、中国文学、史学の各科は、とりわけ洋文に精通しなければならない」と説かれていた。この方針のもとに、全国各地に初等、中等、高等の各教育機関が設置されたのである。北京大学の前身にあたる京師大学堂では結局、「奏定学堂章程」で構想された「文科史学門」は開設されなかった。ただ、その「師範科」に「中外史学課程」があり、外国人教師として坂本健一や服部宇之吉らが教授していた。辛亥革命を経て、北京大学となった後も、すぐに「史学門」は設けられず、「予科」や「文学門」の「言語学類」で「史学課程」が講じられていた。1917年、日本への留学経験のある蔡元培が北京大学校長に就任すると、学制改革に着手し、「文科」に「史学門」を増設した。胡適をアメリカから呼びよせたのも、蔡である。「改定課程一覧」をみると、「史学門」は、「通科」と「専科」に分かれ、「通科」に「中国通史」、「東洋通史」、「西洋通史」、「歴史学原理」、「人種学及人類学」、「社会学」、「外国語」の講座が設置された。この歴史を自国史、東洋史、西洋史と区分するやり方は、いうまでもなく日本の大学を範としたものであった。当時用いられた歴史教科書の多くは、桑原の『中等東洋史』が示した時代区分に依拠して論述されていた。これに対し、桑原の時代区分は、あくまで「極東人」の視点からながめたもので、中国の実情に合っていないといった意見も存在した。たしかに、桑原は中央アジアをめぐる諸民族の興亡として、「東洋史」を描いており、「漢族」、「チベット族」、「交趾支那族」を「支那人種」266