ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

日中両国における人文学の概念形成とし、「日本族」、「ツングース族」、「蒙古族」、「トルコ族」からなる「西伯利人種」と対置させていた。すなわち、「支那人種」と「西伯利人種」における角逐の軌跡として、東洋史を描いたのである。【資料4】那珂通世による桑原隲蔵『中等東洋史』の叙「近年東洋史の書、世に行はるる者頗る多けれども、皆支那の盛衰のみを詳にして塞外の事変を略し、殊に東西両洋の連鎖なる、中央アジアの興亡の如きは、全く省略に従ふが故に、アジア古今の大勢を考ふるに於ては、不十分なることを免れず。予常に之を憾とせり。此頃文学士桑原隲蔵君中等東洋史を著はして予に示せり。予受けて之を読むに、世に出づるを喜び、一言を題して之が序となす。」ところで、胡適が提唱した「整理国故」の成り立ちを考える上で、彼に重要な示唆を与えたと考えられるもう1人の日本人が、朝河貫一(1873-1948)であった。胡適と朝河は1917年6月、偶然にも太平洋を航海する汽船に乗りあわせた。朝河が、のちの『入来文書』につながる研究調査での日本留学であったのに対し、胡適は、北京大学に赴任するための帰国であった。朝河は1等室、胡適は5人が同居する2等室と、部屋が異なったものの、2人は航行中、船の最上階にあった喫煙室で、毎日のように顔をあわせ、語りあったという。朝河は航行中、英語の自著“The Origin of the Feudal Land Tenure inJapan”を胡適に贈った。この論文では、西欧と日本における封建制度(feudalism)の歴史的類似性を指摘した上で、日本における封建的土地所有の生成過程が考察されていた。胡適は、この朝河の論文をよみ、その感想を日記に書き留めていた。【資料5】胡適の留学日記「さきに読んだ朝河貫一先生の「日本封建時代における田畑所有の起源」には、多くの味わいある事実があった。ここに摘記する。附注「封建制度」は、西洋語である“Feudalism”の訳名で、実際のところあまり的確とはいえない。この制度と我が国歴史上のいわゆる「封建」には、違いがある。今は適当な名称がないため、とりあえずこれを用いる。私は朝河君に、日本の学者がかつていかなる名称を用いていたかをたずねた。朝河君は、「封建制度」のほかに、「知行制度」が用いられたといった。「知行」は、公文書にみえる文字である。当時小作人が身売りし、文書で契をむすんだ中にこのような文字があるが、実際に確たる名詞にならなかったとのことだ。今日、私はにわかに、「分拠制度」、「割拠制度」のほうが、「封建制度」よりもよいように思いいたった。」「封建制度」に関する言及は、それ以前の胡適にはみられず、朝河によってその関心をいだくようになったことが、日記からよみとれる。1920年2月、胡適が雑誌『建設』を創刊した廖仲愷に宛てた手紙が、同誌に掲載された。その内容は、古代中国に存在したとされる井田制度の信ぴょう性を問うたものであった。胡適は、朝河の研究をひきあいにだしつつ、古代井田制度の存在をみとめた胡漢民の論文に疑問を呈した。これを機に井田制度の存否をめぐる論争がくりひろげられることとなる。【資料6】胡適「井田辯」『建設』1920年2月「古代の封建制度は、決して『孟子』、『周官』、『王制』が説くような簡単なものでない。古代において部落から無数の小国が生じ、その域内域上にさらに無数の半開化民族が存在した。王室は、各国のうちの最強の国家にすぎず、名義上、宗教上、政治上の領袖をつとめた。いずれにせよ、その数千年もの間、「豆腐乾」のような封建制度が存在したことはありえない。中国の封建時代を研究したいのであれば、ヨーロッパ中世のfeudalismと日本近世の封建制度を参考にし、「豆腐乾を切った」ような封建制度を打破し、別に科学的態度をもって、歴史的想像力をくわえ、古代のいわゆる封建制度は一体いかなるものであったのかを、改めて発見しなければならない(朝河貫一のような日本の学者は、日本の封建制度に対し、きわめて科学的な研究をしている)。」長方形の「豆腐乾」のように区画された封建制度が存在した証拠はなく、当時の政治状況に照らしても実行不可能で、孟子らが描いた井田制度は、ユー267