ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

ページ
270/542

このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている270ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALトピアと考えるべきである。また、「封建制度」は、誤解を招きやすい表現であるゆえ、「割拠制度」の名称を用いたほうがよい。こうした手紙に示された胡適の見解は、まさに朝河論文をめぐる日記の断想を具体化したものといえる。1923年1月、北京大学研究所国学門が、機関雑誌『国学季刊』を創刊した。その編集委員会主任であった胡適は、『国学季刊』創刊号冒頭に、「国学」がどうあるべきかを論じた「『国学季刊』発刊宣言」を公表した。胡適によれば、「国学」とは「国故学」の略語にすぎず、「国故」は「中国におけるあらゆる過去の文化、歴史」とされる。この「国学」に今後、とりくむ際の注意点として、胡適は(1)歴史的なまなざしをもって、国学研究の範囲を拡大すること、(2)系統的な整理により、国学研究の資料を区分すること、(3)比較研究により、国学の材料の整理と解釈をおぎなうこと、の3点をあげていた。(3)の内容について、胡適は「封建制度のように、これまであの四角形の分封説にあざむかれ、あれこれ論じてまったく分からなくなってしまった。今、われわれはヨーロッパ中世の封建制度、および日本の封建制度と比較すれば、容易に理解できる」と、ここでも「封建制度」を例に、「整理国故」における比較研究の有効性を説いたのである。なお、桑原はこの「発刊宣言」をよみ、中国人の中にも、「科学的方法」の必要性を自覚している者がいると評価していた。実証史学における正と負このように、中国における「史学」、とくに「東洋史」の成立を考える上で、日本との関わりは無視することができない。なかでも、桑原隲蔵は、日本で標準的教科書となった『中等東洋史』が中国でも広くうけいれられるとともに、「整理国故」運動を展開した胡適に大きな影響をおよぼした。この桑原が強調した「科学的」歴史研究は、「自らを消し、史料のみに語らせること」を信条としたランケなど、ドイツの実証史学から学んだものであったといえる。実際、桑原自身の歴史研究も、東西のさまざまな史料を渉猟し、テキスト・クリティークをおこない、「事実」を確定してゆくというスタイルをとっていた。ただ、その反面、論文の問題意識や主張は、総じてよみとりにくい。そのうちの1つに、中国人にまつわる「食人」研究がある。桑原は、数多くの史料をあげ、中国で「食人」の風俗が古来よりおこなわれていたこを主張する一方、日本にそうした史料がほとんどないことから、日中国民性の違いとして結論づけていた。当時、大森貝塚などの発掘から、日本でもカニバリズムの存在が指摘されていたが、桑原からすると、それは推測をはさんだ確たる「史料」ではなかったのかもしれない。日本でも、極限的、ないしは特異な状況のもとで、「食人」行為がありえたのでないかと思いをめぐらすことは、「科学的」歴史研究から逸脱するものだったのであろう。【資料7】桑原隲蔵「支那人間に於ける食人肉の風習」『東洋学報』1924年3月「兎に角日本人が飢饉の場合、籠城の場合に、人肉を食用したといふ確証が見当らぬ。まして嗜好の為、憎悪の為、人を啖つた事実の見当らぬのは申す迄もない。…此の如く食人肉の風習は随分広く世界に行はれて居つたが、支那の如き世界最古の文明国の一で、然も幾千年間引続いて、この蛮風を持続した国は余り見当らぬ。」「日支両国は唇歯相倚る間柄で、勿論親善でなければならぬ。日支の親善を図るには、先づ日本人がよく支那人を了解せなければならぬ。支那人をよく了解する為には、表裏二面より彼等を観察する必要がある。経伝詩文によつて、支那人の長所美点を会得するのも勿論必要であるが、同時にその反対の方面、即ちその暗黒の方面をも一応心得置くべきことと思ふ。食人肉風習の存在は、支那人にとつて余り名誉のことでない。されど厳然たる事実は、到底之を掩蔽することを許さぬ。支那人の一面に、かかる風習の存在せし、若くば存在することを承知し置くのも、亦支那人を了解するに無用であるまいと思ふ。」中国人における「食人」風習については、桑原以前にも、神田孝平などが考察をおこなっていた。この中国に存在するとされた「食人」の風習を、深刻にうけとめたのが、魯迅であった。魯迅の問題意識は、日本に留学していた際に、こうした日本の言説にふれ、形成された可能性がある。魯迅は、胡適が提唱した新文学の嚆矢というべき『狂人日記』で、「吃人」の問題をあつかった。以後、「吃人」は、中268