ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL有益であり、われわれのものにして神的なものだからである」(14)云々といった文句も同様のことを語っている。つまりエックハルトはここで、存在者の内奥から発する働きを、神の働きと重ねあわせて理解しようとしている。そして以上のように言われた上でさらに、神が被造物の内で働く命としての業は、目下我々の主題である形相と同定されていく。『知恵の書註解』第173節には次のように書かれている。神が個々のものを動かすのは、[それらのものに]形相と固有性を与えることによってであり、それらの固有性は、[基体を]本性的に、したがって甘美な仕方で、その目的へと導く。(15)神が個々の存在者を動かすのは、形相を与えることによってであると明確に言われている。しかし、形相を付与することによって神が存在者を動かすということで、エックハルトは一体どのような事態を考えているのであろうか。エックハルトは『創世記比喩解』第85節からの箇所において、神の「命令」(imperium)ないし「掟」(praeceptum)について論じている。エックハルトによれば、全ての上位のもの(superius)は、下位のもの(inferius)へ似像を刻印し伝達することによって、自分に似たものとなることを命ずる。(16)先の火の例を再び用いるならば、火は木材に火の形相を与えることによって、熱することや上方へ向かうことといった、火の働きと同様の働きをなすようにしむける。(17)そしてこの火の比喩は自然的存在者間における形相授受の例であるから、そこには例外が存する可能性があるが、神の命令は例外を決して許さないものである。(18)すなわち神が実体的形相を与えるということは、「実体的にして本質的な事物の形相そのものが、その事物そのもののうちに留まり続けながら、何をなすべきであり、何を止めるべきであるかということをつねに不断に教えさとし、警告し、動かし、傾かせ、示唆し、明らかにし、説得する」ことである。(19)そしてこのような形相付与を通じた神の命令によって、全ての存在者は存在者として存在することができるのである。(20)『創世記比喩解』で語られた以上事柄を総合すると、エックハルトの形相理解とは次のようなものである。すなわち、存在者の内奥に存する形相とは、神が存在者を存在せしめるために与えた根拠である。しかもその形相の働きは、存在者に内在化された神の命令として、つまり神の意志に基づく働きでありながら、存在者が自ら喜んで働く業として考えられているのである。このことをエックハルトは奴隷と主人の例を挙げて説明している。奴隷がただ外的に主人の命令を受けるのではなく、主人の意志を自らの意志の現前にして具現とみなすとき、そのような奴隷はもはや奴隷ではなく主人の友であり、主人の意志と一つになった意志を持つ。(21)つまり神から付与された形相を完全に受け入れた存在者において、形相の働きは神からの命令なのではあるが、それは同時に存在者自らの意志による甘美な働きでもあるのである。以上、我々は四原因を内的なものと外的なものとに二分するエックハルトの理解から出発し、そのうち形相因が内的なものとされることを確認した。そしてこのような形相の内性は、甘美さという観点から捉えなおされ、いかなる外的原因にも依存しない、本性に即した甘美な働きとして、また存在者の内奥にあって神が為す働きとして、積極的な意義を与えられてくるのであった。義なる者の生命としての義では、こうした形相理解が為された場合、それは義と義なる者との関係をめぐり、いかなる形で表されてくるのであろうか。アヴィケンナの説を根拠として徳と実体的形相とが同一視されることを、我々は先に確認した。すると形相として見られた義は、義なる者とどのような関わりあいを結んでいくのだろうか。最後にこの点を見たい。エックハルトは『ヨハネ福音書註解』第245節において、次のように語っている。第五に、義なる者それ自身にとっては、義なる仕方で行為することは生であり、そればかりか義は、彼が義なる者である限りその生命であり、その生であり、その存在である。このことの外側にあるものはすべて、上で示したように、苦しみであり、煩わしいものであり、重荷である。それゆえに義の業は、彼にとっては容易なものである。「義の業は平安であろ26