ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL NO. 3 (2015. 10)一中国文学者からのコメント一中国文学者からのコメント千野拓政Comment by a Scholar of Chinese LitteratureTakumasa SENNOシンポジウムにご参加いただいているみなさま。人文学の再検討と再構築を目指すわたしたちの研究の幕開けに相応しいシンポジウムを開催していただき、心より感謝いたします。残念ながら本日は別の学会と重なっており、シンポジウムに参加できず申し訳ありません。つきましては、紙面にて簡単にコメントをお届けし、シンポジウムへのオマージュとさせていただきたいと思います。1.≪人文学≫の本質と、いま求められていること安酸敏眞先生の『現在、あらためて《人文学》を問う』、武藤秀太郎先生の『日中両国における人文学の概念形成――「整理国故」と「封建」を中心に』を拝読して、共感したり、考えさせられたりする点がいろいろありました。まず、安酸先生のご報告で、《人文学》の本質が、注釈と、その注釈に対する注釈にあるという点は、中国文学も同じで、洋の東西を問わないことを再確認しました。中国学では、原典に対する「注」と、その注釈である「疏」を付けること、それを読み解くことが伝統的に学問の中心とされてきました。それは、まさに他者の認識を認識することにほかなりません。こうした世界的な符合は、《人文学》の原点が、地道に原典を読み解き、粘り強く自らの思考を重ねること、そのために他者の声に謙虚に耳をかたむけることにあるのを物語っているでしょう。そうした原点を確認することは、現在の学問の風潮への再考をも促します。先日、いろいろな学問の領域において、英語で研究しなければ世界で通用しなくなっている、例えばイタリア語が中心だった美術史でも英語が重要になっている、という意見を耳にしました。その言葉に、わたしはある種の違和感を払拭できませんでした。よく考えてみれば、それは英語の論文が圧倒的に増えてそれを読むことが求められ、自身も英語で研究を発表しないと多くの人に読んでもらえない状況になっているということなのだと思います。少なくとも、イタリア語で原典を読み、解釈する必要性がなくなった訳ではないはずです。だとすれば、美術史の研究では、イタリア語も英語もできないといけない時代になりつつある、という方が正確でしょう。2014年11月26日付け朝日新聞のインタビューで、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英さんが次のようなことを語っておられました。中国や韓国に行くと、当地の研究者が、日本ではノーベル賞受賞者がたくさん出るのに、自国ではどうして出ないのか真剣に議論していたが、その結論として出てきたのは、日本では日本語で最先端のレベルまで研究できるのが大きいのではないかということだった、というのです。自国語で最先端のレベルを学べないのなら外国語で学ぶしかありませんが、それが研究や教育の進展を束縛してきたのではないか、という意見です。かれの見方は、日本の教育の歴史とも符合しています。明治・大正期の大学は、洋行して戻ってきた研究者が、日本語で最先端の学問を学生に普281