ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALその第一の点は、人文的な知においては、自然科学的な知のモデルとは異なり、ナマの対象自体を直接的に観察することはできない、ということです。「認識されたものの認識」という場合、そのもとの「認識」はつねに、文献や作品などメディア化され4 4 4た痕跡を介して間接的にしか与えられません。私の専門である文学研究でもそうですが、私たちは、過去の作家の認識を脳波や心理実験等で直接即物的に観察するのではなく、作家がそれを表現したものとして残された作品(そしてそれは言語や書物というメディアを支持体とすることで伝承されるのですが)を媒介として、間接的に推量し予測することしかできません。私たちはときに、数百年あるいは数千年前の文献を読み、その表現を読解するという作業を当たり前のように行っています。しかし、その場合私たちは、過去の人間たちがさまざまな媒体(メディア)を通して表現し残してきた認識の痕跡を、あくまで間接的に読み解くことしかできず、そのため、自然科学的な意味での客観的な真実や普遍的法則への到達は、最初から不可能なのです。私の専門分野では、たとえば20世紀初頭のロシアの哲学者グスタフ・シペートが、この問題を真正面から取り上げています。彼は1918年に執筆した「解釈学とその諸問題」という大部の草稿のなかでシュライアーマッハーの解釈学を取りあげながら、「解釈」あるいは「理解」とはじつは、そのもとにある対象がどうしても知りえないものだからこそ、間接的な資料(言葉、記号)の「解釈」による「理解」をする必要が生じるのだと力説しています。実際彼は、アウグスト・ベークの「私たちはプラトンのように哲学する必要はないが、プラトンの作品を理解する必要がある」という言葉を引くことで、プラトンその人の主観や心理自体の直接的・即物的再現と、私たち他者によるプラトンのテクストの読解による「理解」とが、まったくちがう事態であることに注意を促しているのです。ここで重要なのは、シペートがこうした「解釈」と「理解」の問題を、狭義の解釈学や文献学だけでなく、広く哲学や人間的知全体の基礎に置こうとしていることです。上に述べたように、もともと人間的な活動の産物を対象とする知は、いずれも何らかのメディアにおいて表現された痕跡を媒介として、表現主体である他者の認識を間接的に再び理解し認識しなおそうとするものである以上、いずれも「解44 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4釈」による「理解」という読解の技術を必要とする4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4間接的な知であり、過去の他者たちの単独・個別的4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4でかけがえのない存在(人格的なその統一)や、そ4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4の歴史的不可逆性、一回性を対象とし、個別な存在4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4者の個別的意味そのものを救いあげるものであって4、どこの時代の誰にでも当てはまる普遍的法則を直接的に観察し導き出せると考える自然科学的な知とは原理的に異なっているのです。ここから、人文的知の独自性の一端が明らかになると考えられます。つまり、人文的知ではまず、つねに何らかのメディア化された痕跡の読解技術(たとえば言語的なテクストの読解力)が必要であり、そのメディアがどのようなものであれ、それは根本的には変わらないということです。デジタルメディアであろうと、この原理的な問題は変わりません。したがって私たちは、やはりデジタル資料を「他者の認識の認識」として間接的に読解する技術を訓練する必要があるわけです。もちろんメディアの技術的基盤の変化に伴って、読解技術のあり方そのものは当然変化していくのでしょうが。さらに、上で明らかになったのは、人文的な知がつねに、過去の他者の単独・個別的でかけがえのない存在(人格)の歴史的(または出来事的)な一回性とかかわるということです。シペートは、まさにこの点を強調するために、文献学とは「認識されたものの認識」であるというアウグスト・ベークのテーゼを引用し、人文的知は基本的に、他者が過去にすでに認識・表現したものをさらに「解釈」、「理解」し表現する(論文や発言、原稿などで発表する)4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4という点で、原理的に対話的なものであることを示唆しています。このことから、私が強調したい人文的な知の特性がもたらす非常に重大な帰結の第二の点が導き出されます。人文的な知が、ベークやシペートが言うように「認識されたものの認識」なのだとすると、そ4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4れは原理的に対話的なものであり、しかも対話的で4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4ある以上は、「ある表現を読解・理解する」という4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4一回のサイクルのみで完結することはありません。たとえば文学や文献学などの研究では、他者の過去の発言(言語的テクスト)を読み、それについての自分の発言(言語的テクスト)をつくりあげていくわけです。しかし、他者の言葉の読解をとおして織りあげられた自分の言葉もまた、他の誰かによって読まれ、解釈・理解され、その誰かの言葉を形成し288