ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

安酸敏眞先生のご報告「現在、あらためて《人文学》を問う」に寄せてていくわけであり、それもまた他の誰かに読まれていきます。またその発端となった最初のテクストも当然、無から創造されたわけではなく、先行するテクスト、つまりそれより前の他者たちの言葉(テクスト)の解釈・理解を経てつくられたものと考えるべきでしょう。実際私たちは、日々の研究活動において、対象のテクストについて書かれた別のテクスト(二次文献)を読解・再解釈するという作業を当たり前のようにおこなっています。このことは、シペートとほぼ同世代のロシアの美学者ミハイル・バフチンによっても強調されているところです。「人文科学の方法論によせて」というノートのなかで、彼はおそらくディルタイなどをヒントに、事実的でニュートラルなデータの普遍的確認としての「認知」と、個別的・一回的で人格的・主体的な価値づけに彩られた意味の唯一無二の読解としての「理解」とを区別したうえで、あらゆる人文的な知の根底にあるのは、言葉や表現を、事実の「認知」ではなく、価値や意味を「理解」するための基盤となる、人格的な存在者同士のこうした開かれた対話的関係の連鎖としてとらえることだと主張しています。こういう関係のなかでは、当然ある言葉を解釈した言葉もまた、別の言葉によってさらに解釈されるという対話の連鎖に置かれることになり、元のテクストの著者の人格的存在者としての一回性・歴史性だけではなく、それを読解する私たち自身の歴史的存在者としての一回性(その意味・価値)もまた問われることにならざるをえません。しかしまた、逆に言えば、歴史的存在者としての私たちの時間的・空間的な限定性(「今・ここ」に囚われてあることの有限性や貧しさ)、そしてそれに起因する意味・価値的な未決定性は、過去のテクストとの対話的関係や、未来に書かれるはずのテクストとの(可能的な)対話的関係のなかで「読解」し「理解」しあうことで、意味・価値を相互的に読み込み付与しあって、お互いに一回的・歴史的な人格的存在者としての価値や意味の豊かな輪郭を獲得することができる、とも言えます。ちなみに、ここで「人格的」というのは、けっして道徳的・倫理的あるいは人道主義的な意味での人間中心主義や、「人柄」「個性」「性格」などを指すのではありません。バフチンにとって「人格」とは、身体を持って存在する有限の存在者(人間)の存在構造を意味しており、意識の内側から内的に感覚する自分の内的身体と、他者が外在的視野からその人の外的なあり方を視野や言葉などで補ってくれる外的身体という二つの契機によってつくられる統一した主体の存在構造のことです。つまりバフチンは、人間の「私」の人格自体が、つねに他者の視線や言葉(つまり「理解」)を含み込んではじめて成立するものだと考えているのです。またこの点ではシペートも類似の議論を展開しており、彼によれば「個人」や「私」自体が、社会的交流のなかで言葉や記号を介して表現されることで、(他者に)解釈・理解される「意味」として立ち上がってくるものなのです。ここまで考えてくると、冒頭に提示したいくつかの問いについて、大雑把ではありますが、私なりにある種の答えを導き出すことができるのではないかと思われます。私が冒頭で提示した問いは、《人間形成に資するラーニングとしての学知》や、それを可能にする《統合的な原理》とは具体的にどのようなものであるのか、いったいいかなる根拠をもって「人文学」をそうした学知と規定できるのか、またなぜそれが今私たちにとって重要かつ必須なのか、ということでした。まず、「人文学」が「人間形成に資するラーニングとしての学知」であるのは、人文的知の基礎にあるこの「対話性」の連鎖に終わりがないため、私たちはたんにテクストの著者の認識や人格を自分と無関係なものとしてニュートラルに観察したり解剖したりしていれば済むのではなく、それを読解している私たち自身の歴史的・一回的な人格的価値や意味そのものもまた同時に問われることになるからです。しかも人文的な知においては、この対話性に終わりがないため、意味や価値が最終決定されることはありえません、ある「理解」や「解釈」、「読解」は不断に新たな吟味にさらされ、その都度新たな学びが読む側である私たちにも課されてきて、終わることがないのです。この意味で、人文的な知は、読む側にも人格的な価値や意味の終わりなき形成を要求する不断の学びと言えるでしょう。しかもこのことは、人文的な知がバラバラで偶然な自然物や知識の集合なのではなく、表現し読解する主体たちのあいだで交わされる人格的な価値や意味に彩られた対話であることを含意しているので、これが分析的な知ではなく綜合的な知であり、「理解」をとおした意味や価値へのある種の統合を目指289