ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALいては「人」「文」が、つねに何かとの対比によって相対的に認識されているということであり、絶対的な孤高の概念ではないということです。その後、「人文」という漢語は、近代にも多用されています。西周の『百一新論』や夏目漱石の『吾輩は猫である』、あるいは「皇室典範および帝国憲法制定に関する御告文」などの例がよく知られています。これらには、あらたな翻訳語として生まれ変わった側面があるようですが、さきの『懐風藻』序文の使用例を継承した側面も見出せます。さらに、1945年の敗戦後、文化主義や平和主義の思潮と軌を一にして、「人文」という用語が文脈を異にしながら台頭してきたように思われます。そして、この変動の近現代においてこそ、「人文」に「学」を付して「人文学」という概念と雰囲気を創り出してきたのではないでしょうか。しかし、その新たな「人文学」とは何かという回答は、「人文」への回答と合わせて、けっして容易に出せるものではありません。また、画一的でもありません。ただ、少なくとも言えるのは、①何かと対比させられる相対的な概念であること。②その対比には多様性があること。一方、③歴史の投影として創出される歴史的な概念でもあること。④「人文」に「学」を付して「人文学」としたのは、近現代に入ってからであること。⑤前近代の「人文」用語と、あたらしい「学」用語との近現代的な連結には、不協和音が拭えず、「人文」は「学」になるのかという不確実性や不安がつきまとうこと、です。実は、早稲田大学文学部にも、かつて「人文専修」と命名されたコースがありました。優秀な学生が多く集まりましたが、教員は、主として既存の専修(哲・文・史)からそれぞれ「出向」しておりました。その意味では、「起学」的な要素をもつ新鮮な専修でしたが、さまざまな意味において曖昧さを払拭できなかったことも事実です。そうすると、私たちが研究課題として取り上げた「人文学」は、そもそも何なのでしょうか。問題とすべき対象自体が、不確実なものだとすれば、それが「危機」とされ、「再生」すべきものと言われることになります。ふつうに考えたら、これはおかしなことであり、本末顛倒しています。そこで、本来の「人文学」とは何か。それは、どのように定義されるべきなのかという問いが立ち現れてきます。その場合、歴史的に問えば過去へと遡り、哲学的に問えば本源へと向かうでしょう。いずれも、もっともなベクトルであると思われます。しかし、いまひとつの道筋がありそうです。それは、「危機」とされ、「再生」が期待される対象が、なぜ「人文学」と呼ばれるのかということです。つまり、「危機」と「再生」の対象として、なぜ「人文学」が選ばれ、指名されるのかということです。たとえば、近年話題の地震学に「危機」と「再生」が叫ばれているとは聞いたことがありません。経済学や医学などについても同様です。もちろん、それぞれに深刻な限界や反省は多々あると思いますが、それが「危機」や「再生」に直結する事態であるという言い方に遭遇したことはありません。今、このように比較してみると、現今の「人文学」の立ち位置がうかがえそうです。それは、蘇生を施さなければならない程に瀕死状態に陥っている「学」の代名詞が「人文学」であるというよりも、そのような致命的状態であることを人々がいかにも納得してしまう「学」の代名詞が「人文学」であるということです。その意味では、人々が「人文学」という確たる実体に「危機」と「再生」を感得するのではなく、人々が現に生きている自身とその歴史に対して懐く「危機」と「再生」の意識や感覚が、バーチャルな「学」としての「人文学」を創り出して、その「学」の「危機」と「再生」という形で代弁させているとみることができるでしょう。したがって、本源的な問題は、人々自身とその歴史への「危機」観(感)と「再生」への望みにあると思われます。しかし、だからと言って、「人文学」が派生的な問題であるとは言えません。たとえ、バーチャルな「学」として創り出されるとは言え、そこに失望と期待が織り交ざって肥大化した、あるいは逆に萎縮化した複雑な「人文学」がかかげられているからです。これを不名誉ととるか名誉ととるかは自由ですが、少なくとも、「学」の遂行者は、このような「人文学」に責任を負うべきです。なぜなら、一面では、諸「学」との対比において不必要とされ、失効とされる「学」としての「人文学」。そもそも「学」たり得るのかと危惧される「人文学」。しかし、一面では、瓦解しつつある人々自身と、その歴史を再建するための方法として過剰に期待される「人文学」。「学」であってほしい、あるいは「学」になってほ292