ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

ページ
310/542

このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている310ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL第一は、山田史御形の例である。彼は、持統6年(692)、務広肆(のちの従七位下相当)を授けられたが、もと新羅で学んだ沙門であった(『日本書紀』)。つまり、還俗したのである。この後、彼は「文章」の師として東宮(皇太子首親王:のち聖武天皇)に仕え、大学頭となる。また、藤原宮跡から「史記山田」と書かれた木簡が出土している。「山田」とは、御形のことであろう。第二は、高句麗沙門福嘉の例である。彼は、持統7年(693)に還俗させられている(『日本書紀』)。しかし、その理由は不明である。第三は、僧通徳と恵俊の例である。この二人は、文武4年(700)に還俗させられた(『続日本紀』)。通徳は陽侯史久尓曾という姓名を与えられ、恵俊は吉宜という姓名を与えられ、ともに務広肆を授与されている。また、「芸」を採用するための還俗という。このうち、恵俊の「芸」とは医術に関するものである(養老5年正月甲戌条など)。通徳の「芸」については不詳であるが、暦法の可能性があろう(推古10年10月条参照)。また、二人に与えられた氏姓のうち、吉姓は百済系である(天智10年正月是月条)。陽侯史姓については明らかでないが、隋や百済にかかわる可能性がある(『新撰姓氏録』)。第四は、僧弁紀の例である。彼は、大宝元年(701)に還俗となる(『続日本紀』)。春日倉首老という姓名を与えられ、追大壱(のちの正八位上相当)を授与された。彼は、還俗以前から歌を作っており(『万葉集』3の298)、還俗後も万葉歌を多く残し、作詩も知られている(『懐風藻』)。第五は、僧慧耀・信成・東楼の例である。彼らは、やはり大宝元年に還俗した(『続日本紀』)。慧耀は録兄麻呂という姓名を与えられ、信成は高金藏という姓名を与えられ、東楼は王中文という姓名を与えられた。いずれも。本姓への復帰である。彼らは、養老2年(718)以前の官人考試帳(考文)にみえ、録兄麻呂は陰陽博士、高金蔵は陰陽師、王中文は天文博士とある(大日本古文書24-552以下)。なお、高金蔵と王中文は高句麗からの渡来人であり(『新撰姓氏録』)、録兄麻呂(録は、「縮」、「?」などともある)は百済からの渡来人であろうか(天智10年正月是月条)。第六は、僧隆観の例である。彼は、大宝3年(703)の還俗である(『続日本紀』)。すなわち、彼は「流僧」沙門幸甚の子であり、「芸術」と「算暦」に精通していたので、金財という姓名に戻したという。なお、前年の大宝2年(702)4月、彼は、瑞を獲たことによって赦免され、すでに入京(藤原京)していた。一方、父(新羅沙門「幸甚」「行心」)は、大津皇子の事件に連坐して飛騨国の伽藍に流されたが、そもそも「天文・卜筮」に長け、「骨法」をよくしたという(『日本書紀』持統即位前紀、『懐風藻』)。第七は、沙門義法の例である。彼は、和銅7年(714)に還俗させられた(『続日本紀』)。そして、「占術」を採用するために、大津連意?登という姓名を与えられる。この義法は、慶雲4年(707)5月、新羅から帰国した学問僧であった(『続日本紀』)。以上であるが、これを簡単に整理してみると、つぎのようになる。表? 7世紀末~8世紀初の還俗一覧還俗の年紀経歴・出自僧名俗姓名芸692年(以前)693年700年700年701年701年701年701年703年714年遣新羅学問僧高句麗隋・百済カ百済倭百済高句麗高句麗新羅遣新羅学問僧福嘉通徳恵俊弁紀慧耀信成東楼隆観義法山田史御形陽侯史久尓曾吉宜春日倉首老録兄麻呂高金蔵王中文金財大津連意?登文章暦法カ医術詩歌カ陰陽陰陽天文芸術・算暦占術308