ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

日本仏教以前の仏教これらの還俗の特徴は、以下のようにまとめることができる。第一に、7世紀末から8世紀初にかけて集中していることである。すなわち、浄御原令の施行期と、大宝律令の編纂および施行開始期に集中している。第二に、還俗させられた僧のほとんどが高句麗・百済・新羅からの渡来人であり、一部、新羅から帰った倭人も含まれている。第三に、これら還俗僧のほとんどが「芸」の保有者であり、国家が、その「芸」を採用するために還俗させたことである。その「芸」ないし「芸術」とは、現在のようなアートの意味ではなく、中国正史にみられる「芸術伝」の「芸術」とみてよい。つまり、「陰陽」「卜筮」「医巫」「音律」「相術」「技巧」などの技能や異能をさしている(『隋書』など)。このことを逆に言えば、律令国家は、「芸術」を駆使する僧の存在を基本的には認めないということになる。ただ、浄御原令施行期と大宝律令編纂・発布期との間にも差異が見受けられる。それは、後者の段階こそが還俗集中期なのであり、前者の段階には「芸術」の採用を明確にした還俗がみられない。したがって、僧の能力や職能から「芸術」を排除しようとした国家意思は、浄御原令ではなく、大宝律令編纂・発布との組み合わせによって、明確に提示されたことになる。この点、天武14年(685)、天武天皇の「招魂」(重篤からの回復)のため、白朮を煎て献上した「陰陽博士」の百済僧法蔵が、持統6年(692)の浄御原令制下においても還俗させられなかったことに注意したい(『日本書紀』)。法蔵は、梁の道士陶弘景以来の医薬知識・技能を継承し(『芸文類聚』81)、陶弘景撰の『神農本草経集注』7巻(日本では3巻本:藤原宮跡出土木簡)を倭にもたらした可能性もある。また、この時の「招魂」は、仲冬(11月)寅日におこなわれる鎮魂祭の初見であり、「陰」(魄・白)と「陽」(魂・運)の原理を採用している(職員令集解神祇官条諸説。のちの鎮魂祭は創られた神話を適用する)。このような法蔵が「陰陽博士」であることは、当然であろうが、一方で、大宝律令編纂・発布期では還俗させられてもよい性格の僧であった。にもかかわらず、還俗の記録がみられないのは、彼の生存期間を問うことにもなるが、少なくとも、浄御原令制下では、「芸術」を保有し駆使する僧の存在に対して寛容であったことを物語っている。加えて、天武天皇への特別の貢献度が、彼の還俗を免れさせた可能性もあろう。2.律令国家が期待する寺内常住の浄行僧では逆に、草創期の律令国家が積極的に求め、構想した僧のあり方とは、どのようなものであったのだろうか。まず、台頭する行基集団の活動を指弾した霊亀3年(717)の詔が注目される(『続日本紀』)。それによると、僧(尼)の基本的なあり方は、定められた午前の乞食以外、何よりも寺院に寂居して、教えを受け、道を伝えることだという。しかし、行基と弟子たちは、これに反するというのである。その違犯事例は、以下のように要約できる。すなわち、①チマタに集まって集団を形成すること。②家々を回ること。③それらの過程で、指臂を焚き剥ぎ、妄りに「罪福」を説き、「聖道」と称して人々を「妖惑」すること。④人々を生業から離脱させ、行基集団に取り込むこと。さらには、⑤たやすく病人の家に赴くこと。⑥病気治療が仏道によるのではなく、巫術や吉凶占いなどによることである。そして、最後に、重病者への例外的な対応に言及している。つまり、僧のなかから「浄行者」を選抜派遣して、定められた手続きと、寺外にとどまる日程申告のもとでのみ治病に当たることを認めるというものである。実は、この詔は、僧尼令の主要な条文を確認していくことでもあった。したがって、詔が示した行基集団の具体例が、どこまで現実を正確に言い表わしていたのかには疑問が残る。いわんや、この僧尼令は唐の道僧格に倣うところが多い。しかし、僧による治病活動への関心の高さは、現実の歴史から生まれてきたものとみてよい。また、律令国家が理想とした僧(尼)の基本的なあり方は、僧尼令の編纂以前から、すでに構築されはじめていた。つまり、日本(倭)の歴史のなかで準備され、醸成されていたのである。それは、天武8年(679)の布告をもって濫觴としよう(『日本書紀』)。すなわち、僧尼は常に寺内に住み、三宝を護ること。しかし、老病に陥った場合は、寺内(房)の「浄地」が「穢」れるので、間処に舎屋を立てて移住させ、親族や篤信者が看護すべきであるという。ここに、僧(尼)の基本的なあり方が示された。要するに、①僧は寺内に常住して309