ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL仏教を護る。②任意に俗人や俗世間と交わってはならない。③寺院伽藍は清浄な空間である。④寺内常住の僧自体も「浄行者」でなければならないという原則である。この原則は、既述の霊亀3年詔にも貫かれている。しかし、ここで「浄行」に注意する必要がある。この「浄行」は、やがて天平年間(729~49)の優婆塞(出家人・度人)貢進解に記載される常套句となり、それは、経・陀羅尼などの読誦実績(年数)をさしているかのようである。しかし、その中身は判然としない。ただ、貢進解の性格からして、厳しい戒律生活をもっぱら「浄行」と言ったとは考えにくい。そこで、つぎのような二種の出家得度例を、まずは参考としたい。ひとつは、持統3年(689)における蝦夷への出家許可理由である。それは、「閑雅・寡欲」「蔬食・持戒」という(『日本書紀』)。これも漠然としているが、要するに、騒がしくなく、欲深くなく、肉食を避け、戒を守るというのである。すると、厳しい戒律生活を送ってきた者のように思われがちであるが、条件をそこに特化できないのは既述のとおりである。むしろ、ここで留意すべきなのは、この出家申請者が、蝦夷としては高位の務大肆(のちの従七位下相当)を授与された「城養」蝦夷を父にもつということである。つまり、倭が拡大浸透させつつある冠位秩序、蝦夷を倭風化させようとしている冠位秩序を率先して補完する資格の有無が「浄行」の有無であったとみられる。「蔬食」であるというのも、蝦夷の肉食生活や狩猟から離脱して倭風化しているという意味であろう。いまひとつは、天武6年(677)、完成した一切経の供養が飛鳥寺でおこなわれた時のことである。天皇は、寺の南門から三宝(飛鳥大仏)を礼拝した。そして、親王・諸王・群卿らに出家者を一人ずつ賜った。その出家は、男女・長幼を問わず、希望者を募ったものである(『日本書紀』)。したがって、ここでの出家は、厳しい戒律の生活実績が問われていたわけではない。むしろ、出家後が問われたのである。つまり、冠位秩序の中枢を構成する畿内の一人一人を一対一で加護し、保証する役割が出家得度者に期待されたのであり、その役割の証しが「浄行」とみなされたのである。この関係性は、天武14年(685)の冠位改正によくあらわれている。それは、明位・浄位・正位・直位の号をもって示され、以後、「明き浄き直き誠の心」(文武即位宣命)で天皇や国家に仕奉すべき群臣らの基本姿勢が謳われ続けていく。そして、これは「公事」つまり公務なのであり、ここにはじめて「公」の概念が登場する。出家得度者の基本姿勢に「浄行」が求められるのは、まさに、冠位秩序に体現された「明き浄き直き誠の心」と補完関係にあったとみるべきであろう。また、その「明き浄き直き誠の心」が集まり、再生産されていく場は、言うまでもなく宮とその朝庭にほかならない。寺院伽藍が「浄地」でなければならないのも、このような宮とその朝庭との相関関係によって自覚されていった。このことについては、天武危篤の時の対応が示唆に富む。すなわち、「朱鳥」年号を創設し、宮を「飛鳥浄御原宮」と命名し、「浄行者」70人を選んで出家させたのである。このうち、瑞祥としての「朱鳥」は「アカミドリ」と言われ、色彩を越えて「明き」(アカキ)に通じる。よって、「明き浄き」理念が、年号と宮号をかりて、また、出家得度者の「浄行」をかりて、危機突破のために声高く謳われたことになる。こうして、出家得度が、基本的に宮でおこなわれていく時代を迎えるのである。ただ、これまで指摘してきたことは、単なる僧(尼)と俗との関係ではない。出家得度を経た僧(尼)集団と、冠位(位階)秩序を構成する有位者(とくに高位者)集団と、冠位(位階)秩序の外にいる庶人社会との三者関係、あるいは、これに天皇を加えた四者関係を想定しているのである。そして、僧(尼)の「浄行」と有位者集団の「明き浄き直き誠の心」とが、庶人社会に向かって、あるいは天皇の存在を介して補完関係にあるということなのである。この諸関係は、寺院伽藍と宮・朝庭とが「浄地」であることの関係とも矛盾しない。3.「芸術」への恐れ7世紀末から8世紀初にかけて集中的に断行された僧の還俗は、天武6~8年以来、準備されてきた「浄行者」としての僧(尼)集団を確立していくための帰結となる処置であった。つまり、スタートではなく、むしろ、大宝律令発布を期したゴールであったとみることができる。そして、その「浄行」を妨げ、「浄行」に反する可能性がもっとも高く、恐れられたのが「芸術」の駆使なのである。310