ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

日本仏教以前の仏教実は、この恐れには、具体的な先例がいくつもあった。しかし、7世紀前半までは、複合的な知識・技能をもつ僧が寺院内にふつうに居住していた。たとえば、「暦本」「天文地理書」「遁甲方術の書」を倭にもたらして教授した百済僧勧勒や、隋・初唐から天文の知識を持ち帰って『周易』を講義した僧旻らは、その代表であり、彼らは、むしろ歓迎されている(『日本書紀』『鎌足伝』)。ただ、高句麗などでは、「芸術」の怖さや秘密性が既に承知されていた。なぜなら、倭から高句麗に渡って、留学僧らとともに「種々の奇しき術」(虎や針術にかかわる)を会得した鞍作得志は、帰国しようとした時、かの地で毒殺されたと言われている(皇極4年4月戊戌条)。倭の場合、7世紀中葉以降になると、「芸術」への関心が高まり、広がると同時に、その恐れも表面化してくる。その早い例は、斉明4年(658)の有間皇子の変である。この事件は、皇子らが高楼に登って「短籍」をとり、「謀反の事」を「卜」ったとされる(『日本書紀』)。彼らは、卜筮をおこなったのであろう。ために、処罰され、皇子は死に追いやられた。ただ、ここに僧が加わっていたとの記録はない。ついで、天智元年(662)、中臣鎌足家の顧問になっていた高句麗僧道顕は、高句麗滅亡などを「占」ったとされる(『日本書紀』)。これは、まさに「芸術」を駆使する渡来僧が、倭の政治に深く関与していたことを物語っている。ただ、その道顕が処罰されるか、還俗させられたという記録はない。しかし、その知識・技能が鎌足の存在と関連して特別視されたことは確かであろう。そして、そのような特別視が、生命にかかわる殺人事件に至ることさえあった。たとえば、鎌足の長子である入唐僧貞慧が、帰国直後の天智4年(665)、百済の士人によって「能」を妬まれ、毒殺されたと言われている。道顕も貞慧も、『周易』に通じていたのである(『貞慧伝』)。さらに、天智7年(668)、沙門道行が、草薙剣を盗んで新羅へ逃げ去ろうとした事件がおきている(『日本書紀』)。後世、道行は新羅僧であったとの伝承が生まれるが(『熱田太神宮縁起』『元亨釈書』)、その出身は定かでない。その後、天武危篤の時の「卜」によると、「草薙剣」の「祟り」が原因であるとされ、剣を尾張国の熱田社へ移置したという(『日本書紀』)。おそらく、道行が持ち出した草薙剣は、奪還後、天武天皇の身辺に置かれていたのであろう。そして、草薙剣が、諱部(のち斎部)の卜筮にかかわる存在となっていたことが分かる(『古語拾遺』)。しかし、草薙剣は複数あった。記紀神話や伝承では、スサノヲが得たもの、ヤマトタケルが用いたものがあり、「天叢雲」「?雲」(ムラクモ)の剣とも呼ばれた。また、摂津国の住吉大社にも、3尺(約89㎝)の「神世草薙剣」が伝えられていた。日月五星や四神などが刻まれていたという(『住吉大社神代記』)。「ムラクモ」の呼称も、何らかの文様から連想された名称かと思われる。いずれにせよ、道行が奪取した草薙剣にも、天文・陰陽などの理解が付帯していたのであろう。あるいは、少なくとも、道行の奪取事件を契機として、草薙剣にそのような理解が自覚されてきたとみることもできる。一方、この事件は、天智の即位年に発生し、高句麗の滅亡年にもあたる。したがって、内外の変動期におきた事件であり、この時期、剣一般への関心も高まっていた。たとえば、百済再興のために倭から母国に帰った王子豊璋(扶余豊)の「宝剣」は、大いに注目された。この「宝剣」は、本人の逃亡後、唐に捕獲されている(『旧唐書』劉仁軌伝など)。また、百済復興のために倭から派兵が準備されていた最中、播磨国の土中から「宝剣」「異剣」が発見され、献上されたが、天武12年(684)に旧地へ戻されたという(『日本書紀』『播磨国風土記』)。天武朝では、石上神宮の「神宝」が整理され(天武3年8月庚辰条)、土左大神の「神刀」が天皇に献上されている(同4年3月丙午条)。さらに、新羅では、金?信の「宝剣」が著名であり、その剣に「天官」から光が垂れて「霊」が降り、「虚・角の二星」が宿ったとされる(『三国史記』金?信伝)。沙門道行の草薙剣奪取事件は、刀剣への関心が高まる東アジアの大変動期を基盤にして、おそらく新羅などとも関わりながら発生したものとみられる。とすれば、この時はじめて、草薙剣が広く認知されはじめたと言うべきかもしれない。それだけに、天文・陰陽などの「芸術」に関与して草薙剣を国際環境のもとで解釈する僧の出現は、あらたな僧への認識を惹起させる衝撃的な出来事であったに違いない。この事件後、また別な形で僧のあり方が記憶されるようになった。それは、吉野に出家した大海人皇311