ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL子(のち天武天皇)が「天文・遁甲」をよくし、壬申の役(乱)で挙兵進軍中、みずから「燭」をかかげて「式」をとり、黒雲の出現に関して「占」ったとされていることである(『日本書紀』)。大海人皇子は、このような「芸術」をどのようにして学習したのだろうか。時間的推移からみて、吉野入り後にはじめて学んだとは考えられない。当然、それ以前に学習していたはずであり、だからこそ、人々は、大海人皇子の吉野入りを恐れたのである。では、いつ、どのように学んだのであろうか。既述の百済僧勧勒がもたらした「芸術」のうち、「天文・遁甲」は大友村主高聡に伝えられたというから、大海人皇子は、近江国滋賀郡の地に集住する大友村主氏に学んだ可能性もある。もし、そうであれば、近江遷都後、およそ5年間未満の学習になる。一方、大和国の葛城高宮寺や、難波の百済寺に住む百済僧のうち、隠身・分身の術を駆使し、近江に現れるなどの現象をみせる修行者も知られていた。これらのなかには、百済滅亡後に倭に入った僧も含まれているが(『日本霊異記』上の4・14など)、このような百済僧に学んだ可能性もあろうか。しかし、ここで重要なことは、大海人皇子自身が「芸術」の両義性を、つまり効能と怖さを同時に熟知していたことである。いわんや、それに僧形が加わると、その両義性がさらに顕著になることも察知できたはずである。このような自身の経験と記憶が、逆に、天武朝の政策に活かされた可能性は充分にあろう。これらを下敷きにして、僧が駆使する「芸術」への恐怖を決定的なものにしたのは、のち還俗させられた僧隆観とその父である新羅僧行心(幸甚)の事件である。行心は、既述のように、朱鳥元年(686)、天武危篤の時に発覚したとされる大津皇子の変に連坐し、飛騨国の伽藍に流された。その子の僧隆観は、父とともに飛騨国に流されたものと思われ、飛騨国で生まれたわけではあるまい。そして、父の「芸術」は、その子へと伝授された。問題の行心は、大津皇子との交流を深め、皇子の「骨法」が「人臣の相」でないこと、早く皇位につかないと異変が生じることを皇子本人に進言したという。このような「相術」は、大友皇子の「風骨」を観察し、予言した唐使劉徳高の例もある(以上、『懐風藻』)。加えて、隋末から唐にかけて流布してもいた。たとえば、李淵(のち唐高祖)の「骨法非常」を観察し、将来「人主」になることを予言した「善相人」の史世良。李世民(のち唐太宗)の将来を予言した「善相」の「書生」某。則天を宿した母の「骨法」を見抜き、太宗からも信任された「相術」の袁天綱。その天綱と「相術」を張り合った張憬蔵らがよく知られている。張憬蔵の場合は、太宗の高句麗遠征に従う人物の運命を予言し、朝鮮半島計略に携わった劉仁軌についても予言している(以上、『旧唐書』本紀・方伎列伝など)。これらは、いずれも僧の例ではない。しかし、皇帝になる以前の唐高祖や太宗、あるいは則天武后らの予言をおこなった「善相」譚が横行し、また、高句麗遠征などの半島計略を推進した劉仁軌らにかかわる「善相」譚も知られていたなかで、大津皇子の「善相」をおこなう新羅僧があらわれたとしても不可解ではない。そして、草薙剣を奪取して新羅へ向かおうとした事件とも合わせ考えるならば、新羅とのかかわりにおいて「芸術」を駆使する僧の存在が恐怖される傾向にあった。おわりに上述のような「芸術」への恐れ、そして、そのような「芸術」を行使する僧の相次ぐ出現に対する危惧こそが、はじめに指摘した還俗政策をもたらすに至った。それは、同時に、「浄行者」集団の措定を促したことにもなる。ここに、「日本仏教」が登場してくる最初の道筋が見て取れるとともに、「日本仏教」以前の「仏教」がどのようなものであったのかも知られるであろう。なお、これについては、拙著『日本古代文化史の構想』(名著刊行会、1994年)、同『道教をめぐる攻防』(大修館書店、1999年)を合わせて参照していただければ幸いである。312