ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL山上に穿たれ、多くのものが1700メートル以上の場所にある。言葉を換えると、須弥山石窟は大部分が山の中腹にあり、頂上付近に穿たれたものもある。これは明らかに山津波や流水による浸食を避けるためである。須弥山において最も早く掘削されたのは子孫宮区南部と中部の石窟群であり、第14、24、32、33など14窟がそれである。これらは北魏に造られ始め、西魏に増修が加えられ、中心柱窟と仏殿窟とからなり、当時の僧尼の礼拝、集会、修行、説法受戒の場所であった。そのなかで33窟がもっとも大きく、面積は幅・奥行が約8.2×8.3メートル、窟頂高約3.3メートル。石窟の前にもともと木造建築物があった(図4)。壊れてはいるものの、ユニークな構造で、珍しい形状を呈しており、同時代の中国石窟のなかでは孤例と言える。僧禅窟はやや狭小であり、窟内には通常、彫像装飾が施されず、火?、禅座があるのみで、面積は極めて小さく、人一人しか入ることができない。僧禅窟は礼拝窟を囲むようにして造られている。円光寺と相国寺の両区域は須弥山の中心部に位置する。ここには須弥山の主要な石窟が集中している。規模も大きく、数量も多く、彫像も精緻であり、須弥山を代表する石窟群と言える。円光寺には主要なものとして五つの窟があり、切り立った崖壁に穿たれ、前面にはもともと木造建築物があった。台地上には明代の円光寺の旧跡が残る。この5窟は北周になるもので、同時に造られたものであろう。上部には二つの中心柱窟があり、平面形は方形を呈し、華麗な彫飾が施されている。下部の石窟は未完成のようである。同時に未完成なものとして、東側崖壁に石窟の扉用の溝のようなものが穿たれている。円光寺石窟は基本的に北周時代に開鑿された当時の形状と風格とを留め、後世にも重修が加えられ、最後の改修は明代頃と考えられる。48窟の中心柱壁面には彩色を施された仏像画がある。崖面の窟門上部には「人」字形に排水用の溝が切られ、雨水が崖面を伝って排水溝に流れ込み、石窟を保護するように作られている。崖面の西側東南から山麓に沿って階段が設えてあり、北側の一段は山崩れの際に破損したが、南側は比較的よく保存されている。階段の外側には孔が開けられており、もともと木製の手摺りが設置されていたと思われる。44窟には多くの陰刻や墨書題記が残されているが、その大部分は明代のものである。46窟にはチベット語の題記もみえる。相国寺区には須弥山でもっとも重要な第51窟がある。これは一つの小山の内部を完全にくり抜いて造った一大中心柱窟であり、幅26メートル、奥行き18メートル、本尊の像は高さ7メートルに達する(図5〔1〕、図5〔2〕)。入り口の左上方にはもともと小龕一つがあり、内部には仏坐像二体が彫られ、西魏の作風を呈する。このことから、51窟の掘削順序は、まず上方に小龕を穿ち、続いて内部を開鑿していったことが分かる。惜しいことに、この一大石窟は未完成のままに終わっているようである。中心柱の正面の龕内の、仏像頭部に相当する部分の壁面に十数カ所の、長方形や円形の孔が穿たれている。推測するに、仏像頭部はもともと、銅など、より重い素材で制作されていたのではなかろうか。このような材質であれば、鍍金などの細工がより施しやすいのである。石窟入り口に存する梁の架構の孔跡から分析すると、51窟にはもともと木製の窟檐二つが付いていたと思われる。石窟頂上には排水用の溝があり、雨水が流れるようになっている。相国寺は51窟など、独立した小山に開鑿されたものの他、大部分の石窟はそれと隣接する山上に穿たれ、およそ40あまりの洞窟があり、須弥山石窟のなかでもっとも石窟の密集する区域となっている。北周石窟の他、唐代窟もこの区域に保存されている。大仏楼区と桃花洞区は唐代に開鑿された重要な区域である。第5窟大仏楼はもともと景元寺といい、大龕内部に高さ20メートルに達する弥勒倚坐像が彫られ、なかなかの迫力があり、有名な唐代仏像の一つである。頂部には完璧な排水システムが整えられ、龕内には唐の大中三(849)年呂万中の題記がある。龕の前面にはかつて規模広大な三重の楼閣が建てられており、大仏楼と呼ばれていた。楼区の前面には寺口水河が流れており、第1窟の前には古代の道路の遺跡と建築物の柱跡が遺っている。桃花洞区は前山から1キロほど離れた谷間にあり、桃の木が多く植えられていることから、桃花洞と呼ばれる。105窟は規模広大であり、特別な形状を取っている。石窟は前後二つに分かれ、それぞれ314