ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

須弥山石窟の分布と開鑿中心柱を持ち、地蔵菩薩像などが安置され、石窟外正面の壁から見ると、四つの大型長方形の梁孔が認められる。ここから推測すると、105窟を中心とする五つの洞窟は一様に一つの大型木造建築物の下にあり、これは三重の楼閣を持つもので内室には採光用の窓があった(図6〔1〕、図6〔2〕)。開鑿の時期はおおむね盛唐初期である。大型の木造建築によっていくつかの石窟を結合させるというのは、事前の緻密な設計に基づいてなされたものであろう。二、須弥山北周石窟を造営した人物須弥山とはサンスクリット語Sumernの音訳で、「宝山」の意であり、仏教世界の中心である。第1窟の仏立像の左側の衣の裾部に、西夏の趙諒祚の拱化三(1065)年になる墨書題記がある。「拱化三年七月十五日、……須弥山口巡礼して竹石山中に至る。」(拱化三年七月十五日、……須弥山口巡礼至竹石□山中□(6)。)西夏の時代、原州の管轄下に置かれたものに須弥塞がある(7)。この塞は須弥山から名付けられたに相違なく、西夏時代にはすでに須弥山の名があったのである。これはチベット仏教の盛行と関連があるのかも知れない。明『嘉靖固原州志』巻上に「須弥山は州の北九十里に在り。上に古寺有りて、松柏桃李鬱然たり。即ち古の石門関遺址なり」(須弥山、在州北九十裏、上有古寺、松栢桃李鬱然、即古石門関遺址。) (8)とある。北魏の太延三(436)年、原州を置き、後に高平鎮に改めた。北魏の軍隊の主力はここから凉州(今の甘粛武威)の北凉政権に侵攻し、北凉滅亡後は拓跋鮮卑が北方を統一した。高平に平穏が戻ると、大体この時期に仏教勢力が入り込み、北魏後期に入ると須弥山石窟の開鑿が始まった。北魏政権の短い平和の後、魏の孝文帝の漢化政策が失敗に帰すると、鮮卑の貴族らは北方の六カ所の重要な軍鎮において六鎮の乱を起こした。爾朱のグループが魏王室を影響下に置くようになると、高歓、宇文泰が相次いで興起、北魏の統一政権は東魏と西魏に分裂した。六鎮の乱の際、高平鎮は重要な役割を果たすことになる。北魏が大将・賀抜岳を派遣して関隴を平定した時、宇文泰は別将として随行した。万俟醜奴が平定されると、宇文泰が原州を鎮守することとなり、当地の豪族である鮮卑の李賢一族と親交を結ぶ(9)。原州は宇文泰発祥の地であり、彼はここを根拠地として高歓を討伐し、魏の文帝を奉じて長安に至った(10)。宇文氏は西魏を討って北周王朝を立てた。北周はわずか二十五年ほどの期間しか存在しなかったが、須弥山においては非常に多くの重要な石窟を造営した。宇文氏と原州の李賢の系統との親密な交際は、われわれが北周の須弥山石窟について考えるに当たり、重要な視点となる。宇文泰は仏教を篤く信仰し、「釈教を興隆し、大乗を崇重す。万機を摂総すと雖も、恒に三宝を揚ぐ。第内常に百の法師を供し、経論を尋討し摩訶衍を講ぜしむ。」(興隆釈教、崇重大乘。雖摂総万機、而恒揚三宝。第内常供百法師、尋討経論講摩訶衍。)(11)宇文氏一族と仏教との関係は非常に深く、多くの人が仏教の名詞を名前としている。例えば、宇文護は幼名が薩保(12)、宇文導は字が菩薩であり(13)、その従弟の一人は菩提といい(14)、もう一人の従弟は尉遅綱、字は婆羅といった(15)。このような名付け方は宇文氏と仏教との間の関係を傍証するものである。宇文導は宇文泰に従って原州一帯で活動した。「太祖賀抜岳に随いて入関するに及び、導従いて西し、長(つね)に征伐に従う。太祖侯莫陳悦を討ちしとき、導を以て都督と為し、原州を鎮めしむ。悦敗れて、北のかた故塞に走出するに及び、導騎を率いて之を追い、牽屯山に至りて悦に及び、之を斬り、首を京師に伝う。」(及太祖随賀抜岳入関、導従而西、長従征伐。太祖討侯莫陳悦、以導為都督、鎮原州。及悦敗、北走出故塞、導率騎追之、至牽屯山及悦、斬之、伝首京師) (16)宇文泰は二人の幼い子供を六年もの長い間李賢の家に預けていたことがあった(17)。われわれは李賢及びその家族の宗教信仰に関する直接的証拠を持たないが、李氏一族と宇文氏一族との密接な関係から、彼らが長期間盤踞した原州須弥山に、円光寺区45、46、51窟のような雄偉かつ精美な石窟を開鑿したであろうと考えることは正当な推測である。その他、もう一件の証拠も、李氏一族が仏教を信仰していた可能性を示唆している。法門寺に、仏教活動と関わりのある結銜題名碑の残欠一片があり、合計6行分が残存していたが、そのなかの一行に「第七子豈、周□□申国公の孫」とあった(18)。調査の結果、北周代に申国公に封じられたのは李賢の弟李穆一人のみである(19)。その孫が他人とともに結銜して名を連ねているのは、明らかに仏教活動に参315