ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

漢唐時期の西域仏教とその東伝ルートと同じように、仏教は疏勒でも国王の信奉と支持を得た。もとの疏勒国の国内に現存している仏教遺跡には沙依拉木(サイラム)仏教石窟・脱庫孜吾吉拉石窟(三仙洞)・旗盤郷石窟・刻太克石窟・克斯勒塔格(キジル・ターグ)仏寺遺跡・托庫孜?孜那克(トックズ・カズナック)仏寺遺跡・達克牙魯斯夏雷(ダキヤヌス・シャール)仏寺遺跡・明堯勒仏塔遺跡・?瑪洞仏塔遺跡・喀勒乎其農場仏塔遺跡・克克勒瑪仏寺遺跡・図木秀克(トゥムシュク)仏寺遺跡・脱庫孜薩来(トックズ・サライ)仏寺遺跡・刻太克仏寺遺跡・莫爾(マウリ・ティム)仏塔遺跡と杏園仏寺遺跡等がある。漢唐時期の吐魯番地区の仏教は、ほぼ二つの発展段階を経ている。一つ目は早期の車師仏教、二つ目は高昌仏教である。仏教は高昌の伝播にあっては、当地の伝統的漢文化に適応し、あわせて民間において発展した家族の力の助けを借りた。したがって仏寺の「像廟星羅、僧欖云布」の局面を現し、併せて家族化の特徴を備えている。控えめに見積もっても、すでに高昌城附近は「仏寺三百余座、僧尼逾三千人(仏寺三百余り、僧尼は三千人を超える)」の状態であった(4)。吐魯番地区に現存している晋唐時期の仏教遺跡は主に交河故城仏寺(塔)遺跡・高昌故城仏寺(塔)遺跡・柏孜克里克(ベゼクリク)仏教石窟群・雅爾湖(ヤール・コト)石窟群・吐峪溝(トユク)石窟群・勝金口(勝金口/センギム)石窟・拝錫哈(バシハル)石窟・七泉湖(チッカン・コル)石窟・蘇貝希(スバシ)石窟・小桃児溝石窟・大桃児溝石窟・忙得古爾(マンダ・グーリ)石窟・徐干山石窟・葡萄溝(ブライク)仏塔2座・阿瓦提仏塔・鳥江布拉克(ウジャンブラック)仏塔・勝金口(勝金口/センギム)仏寺・勝金口(勝金口/センギム)舍利塔群・阿斯塔那(アスターナ)仏塔・克其克阿薩(キチック・アサ)仏塔・色爾克普(シルカップ)仏塔・塔木古塔什仏像刻石・西格力克塘木仏寺遺跡等がある。伊吾は後漢以後「西域の門戸」となったが(5)、戦乱が断えず民族遷徙が頻繁であったために、漢唐時期のある地区の仏教流行の情况は文献の記載中にはっきりとしているわけではない。哈密地区に現存している主な仏教遺跡には?俄爾仏塔・艾勒克吐爾仏寺遺跡・庫木吐魯仏寺遺跡、托瑪仏寺遺跡、甲郎聚龍仏寺遺跡・恰普北仏寺遺跡・白楊溝(白楊溝、別名ラプチュク)仏寺遺跡・小泉子南仏寺遺跡・廟爾溝(廟児溝、別名アラ・タム)仏寺遺跡・央打克(ヤンダック)仏寺遺跡等があり(6)、歴史的に見て伊吾地区の仏教はやはり極めて繁栄していることが分かる。これらの仏寺の遺跡の多くは唐代或いはそれ以後に属し、漢唐時期の伊吾の歴史を結合してみると、伊吾仏教の繁栄期はまさに唐が伊州を建立して以後に属すはずだ。三、西域仏教東伝のメインルート仏教は最初中央アジアの貴霜王国(大月氏)から直接中国内地に導入されたのではあるが、魏晋以後の西域仏教の全面的出現・発展・成熟によって、その内地仏教への影響も断えず深まり、持続している。晋唐時代、これらの西域オアシス諸国で当時仏寺(窟)が林立していく中で、大・小乘仏教の教義が並行し、胡・梵語の仏典が共に現れ、高僧・大德が頻出し、各々の特色は鮮明であった。したがって西域仏教と仏教文化の発展を起こし、繁栄の情勢を呈した。西域と内地の各族の僧侶は仏教によって結びつき、シルクロードに沿って西去求法、東行弘教し、更にすすんで西域における東西方面の各民族文化の伝播と融合を促進した。漢唐時期の西域仏教の東伝とその内地仏教との連動形式は多様で、そのルートは多元的で、概括してみるとほぼ以下の数種になる。1、西域僧侶東行弘法西域僧侶の東行弘法は、西域仏教の早期東伝の主な形とルートであった。その中でも于?・亀?と高昌僧侶の東行弘法活動の影響は比較的大きかった。于?僧侶の努力の下、大乘仏教の経典《放光般若経》に「大行華京、息心居士翕然傳焉」とあるような状態となった(7)。東行弘法の亀?僧侶中の最大の功労者は間違いなく鳩摩羅什である。彼は姚秦弘始三年(401年)に長安へたどり着き、十五年(413年)に円寂するまでの十余年間中に、広く弟子を招き・妙典を訳出し、遂に「法鼓重震于閻浮、梵輪再轉天北(仏法が重ねて現世を大きく震わせ、梵輪は再び天北をまろぶ)」ようになった。この外に、文献に記載されている中で考えるべき東行弘法の亀?高僧には白延・帛元信・帛法巨等がいる(8)。彼らは内地で訳経・校閲し、もしくは信徒を受け入れ、法を授け、内地における亀?仏教の伝播に貢献した。323