ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALこれらの西域高僧の東行弘法手段は携経・訳経・義解(釈経)・明律・唱導の外に、初期にはやはり多くの人々が霊異あるいは神異を用いる方法によって仏法の霊験を示し、漢地伝統の方術習俗に同調することによっている。例えば帛尸梨蜜多羅は「善持呪術、所向皆驗。初江東未有呪法、密訳出『孔雀王經』、明諸神呪、又授弟子覓歴、高声梵唱、傳響于今」(9)。これらの神異の方法と手段は内地における仏教の早期弘布に用いられた。とりわけ民間における広泛な伝播に顕著な效果を引き起こしたが、ある程度の危険を内在していた。北魏太武帝は太平真君五年(444年)、「沙門之徒、假西戎虚誕、生致妖?」(10)したため、詔を下すことで仏法を滅ぼし、内地の歴史上第一の廃仏皇帝となった。2、内地の僧侶西行求法西域僧侶の東行弘法活動の展開及び仏教の内地における広泛な伝播に随い、内地の仏教界はしだいに受動的な受容にだけでは満足できなくなっていった。これに加えて、早期西域僧侶の訳経は常に「文章隠志」、「訳理不尽」の現象であって、したがって西行して真経を獲得しようとするのは自然と多くの内地の高僧の必然的選択となった。彼らの西行求法の早期の目的地は西域に隣接する地区である。内地の西行求法の第一人者朱士行を例にとると、曹魏甘露五年(260年)に西方の流沙に渡り于?に至り、梵書の正本九十章を得て、并せて弟子を派遣し、洛陽に返して経典を訳出させ、他自身は最終的に于?において円寂した(11)。晋末宋初以後に、内地の僧侶の西行求法は段々と高潮に達した。内地の僧侶は西域へと求法し、多くは于?・亀?に去った。したがって両地の仏教は漢地仏教に対して非常に大きな影響を与えた。当然、一方で古代南アジアをみてみると、ここは仏教起源の地で、中央アジアの貴霜王国も当時の仏教の中心の一である。もう一方では、仏教は西域に東伝した過程において既に別の変化を発生させている。それ故に来源が多様になっている早期漢地仏教は訳経が晦渋で、意味の多くは誤っているだけではなく、経義は煩雑で、教義は混乱し、戒律は弛れ壊れ、仏教の更なる進歩発展に影響を与えた。このため晋唐時期は更に多くの内地僧侶が西域をこえて、印度と中アジアに向かい、「真経」の獲得を目指して、内地仏教にあった問題を解決しようとした。東晋法顕と唐初玄奘は、この方面の代表者である。3、政治交流西域僧侶の東行弘法と内地僧侶の西行求法以外に、両地の統治者の多くは各自の政治目的から、多くは仏教を借りて互いに連絡を取り合い、西域仏教東伝の重要なルートとなった。東晋の弥天釈法師はかつていう「不依國主、則法事不立」、と(12)。事実上、漢晋時期の西域仏法は内地において初伝の状態で多く賜りものをした統治者への仏教の利用・支持を発揚した。西域諸国の統治者について述べると、中原の朝貢活動の中にも常に仏教の内容を入り混じらせた。例えば前秦建元十八年(382年)正月に、車師高僧鳩摩羅跋提は車師王弥匸に随って入朝し長安に至って、胡語本の『摩訶鉢羅若波羅蜜経』、『阿毘曇抄』、『四阿含暮抄』等を携さえて献上した(13)。亀?副使羌子侯は中原に使いを出した時、梵本仏経『阿維越致遮経』を携さえて敦煌に至った(14)。北魏文成帝末年(465年)に、疏勒国は「其王遣使送釋迦牟尼仏袈裟一」という(15)。類似の記載は多くの歴史書に見え、枚挙にいとまがない。4、軍事征伐軍事征伐はこの時期の仏教が西域より内地に東伝する一種特殊なルートであって、実際政治交流の延長とみなせる。この方面の典型例は前秦皇帝苻堅の時の亀?高僧鳩摩羅什にみえる(16)。呂光は亀?を破った後、羅什を携えて東の凉州に帰った時に苻秦は已に亡んでいた、羅什はまたここで妨害を受けた。後秦弘始三年(401年)に、姚興は呂氏を大破し、鳩摩羅什はようやく長安に迎えいれられることができ、最終的に内地への影響が深い一代の仏教の師となった。これらの軍事征伐活動の主な目的は必ずしも西域の高僧・大德入手のためだけではなかったが、客観的にはやはり西域仏教の内地における伝播を促進した。5、人口遷徙「道由人弘,法待縁顕」(17)。古代シルクロード上の人口遷徙活動も仏教伝播の一つの重要なルートである。例えば西域の?善王国における仏教の唐突な変化の現れは、すなわち貴霜移民と関連のある可能性がある(18)。漢晋時期、大量の内地移民の不断の遷入に随って、漢地仏教は高昌に伝入し、ここを324