ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

ページ
348/542

このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている348ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL起させようという試みが現れた。それが街巷仏教的な大衆教化の形式をとる大衆仏教運動だったと考えられる。街巷仏教を主導した僧侶たちは、教団の中心の僧侶たちとは、外見的にも異なる面貌をみせていた。当時の教団の中心である円光、安含、慈蔵たちは、すべて真骨出身であり、中国留学をして、王室の支援を受けていた(1)。一方、街巷仏教を主導していた恵宿、恵空、大安、元暁たちは、みな非真骨出身であり、中国留学をせず、街巷や慶州外郭地域の寺刹を舞台に活動していた(2)。元暁は、以前から進行していた貴族仏教的大衆化の限界性を自覚し、恵宿、恵空、大安たちの街巷仏教的大衆教化の先覚者と志を同じくして、王室との関係に一定の距離を置きながら、独特な韓国仏教思想を創出し、これを基盤にして、ついには新羅の大衆仏教を大きく発展させ、その完成をみることになった。このような元暁の仏教大衆化に対する思想的背景について考察してみようと思う。1実践理念元暁の仏教大衆化の実践理念は、空有論諍の和諍思想から始まったといえよう。まず元暁の著書のなかで『金剛三昧経疏』は、『大乗起信論疏』・『華厳経疏』とあわせて元暁三疏と称される。そのなかで『大乗起信論疏』と『華厳経疏』は、中国僧侶たちが海東疏と呼び、好んで引用したことでも知られているように、中国仏教史の展開過程で重要な一翼を担っていた。また『金剛三昧経疏』3巻は、略本疏が中国に伝わり、翻訳され、激賞されて論として翻訳された(3)。元暁の思想を論じるとき、一般的に彼の思想体系は、『大乗起信論』を注釈した「別記」において理論体系が完成され、『金剛三昧経』の論を注釈したことで、その実践体系もまた完成したという。そこで、本発表でも空有和諍の仏教大衆化の実践理念を論じるために、当時の元暁が『金剛三昧経』の梵行長者のような無碍行に依拠して、衆生教化を繰り広げた点などを考慮し、元暁の社会観がうかがえる『金剛三昧経論』と、そうした実践体系の理論的根拠を提示してくれる『大乗起信論別記』とを中心に簡略にみてみよう。上記で若干ふれたように、『金剛三昧経』は般若空観をその思想的基調としている。一方、元暁は、この経に対する論を書きながら、空有和諍の当時の仏教社会を考慮した観点のもとで『金剛三昧経論』を著述したとみられる。それに加えて『大乗起信論』の一心二門体系を通じて、理論的に和諍させている。これは、元暁による経名の解釈を通じて知ることができる。そこには、「破さないものが無い(すべてを破する)が故に、金剛三昧と名づける。立てないものが無い(すべてを確立する・網羅する)が故に、摂大乗経と名づける。あらゆる意義・宗旨(おおもと)は、この二つを出過しない。この故に無量義宗と名づける。[今は]仮に一つの項目を挙げて、その首題(経の題名)とする。故に『金剛三昧経』と名づけるのである」(4)という。経のこの句節を『大乗起信論別記』に現れる次の句節と比べてみると、その意味がより明瞭になる。すなわち、[『大乗起信論』が]論ずるときには、立てないものは無く(すべてを網羅し)、破らないものは無い(すべてを破する)。『中観論』(『中論』)・『十二門論』等といったものは、諸々の妄執をあまねく破し、また破する[という概念]すら破するが、破する主体・客体それぞれを還許(また認めること、もしくは、かえって認めること)しない。これを「往而不遍論」(往けども遍満しない論=究尽しきれていない不十分な論)と言うのである。その『瑜伽論』・『摂大乗論』等は、通じて浅深(といった区別)を立てて、法門を判ずるが、自ら立てた法については、融遣(融通したり簡拓したり=是非を問うことか)しない。これを「与而不奪論(与は褒めること・奪は斥けること。褒めるばかりで排斥しない論)と言うのである。今この論(『大乗起信論』)は、既に智があり、既に仁がある。[その内容は]玄妙にして、しかも伝達される。還許とは、あの「往」[の意味]を顕示している。極限に往き、しかもあまねく網羅する[意味である]。自遣とは、この「与」[の意味]を明らかにしている。「与」を窮めながら、しかも「奪」なのである。これを「諸論之祖宗」(諸々の論のおおもと)・「群諍之評主」(沢山の諍論の評主)と言うのである」(5)という。上掲の経と論において、『中観論』とそれを要約した『十二門論』は、すべてのインドの中観学派と中国の三論宗において重視した論として「一切皆空」を強調している。同様に『瑜伽論』と『摂大乗論』などは、インドの瑜伽行派と中国の唯識学346