ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL律令国家は、故元明太上天皇の追善を主目的として、『大集経』『大菩薩蔵経』『観世音経』らとともに『華厳経』八十巻の書写と京内諸大寺での読経を命じている。漢訳『華厳経』には、旧訳本(東晋仏陀跋陀羅訳)と、新訳本(唐の実叉難陀訳)があるが、この記事では八十巻とあるので、新訳経典であったことがわかる。新訳本は承暦二年(699)に漢訳されているが、それからさほど経過しないうちに将来されたことになる。他方、旧訳本は「正史」にはあらわれず、受容の時期は明らかにしえない。しかし、正倉院文書では、皇后宮職管轄下の写経所の写経事業に関わって、天平三年(731)~四年にかけて新旧両経典が書写された記録がある。天平十五年(743)ごろまでに作成されたとみられる皇后宮所蔵経典に関する出納目録(「経巻納櫃帳」)にも、新訳とともに豪華な装丁の旧訳本もみえている。また、すぐ後に述べるように、東大寺前身寺院の一つである金鍾寺(ほどなく大養徳国金光明寺となる)では、天平十二年(740)より、旧訳本の講説が審詳により始められている。旧訳本の漢訳は東晋最末年の元煕二年(420)なので、かなり早くから伝来しうる条件があったことがわかる。以上を勘案するに、「正史」に旧訳本がみえないのは、おそらくは、それが既にかなり早い時点で日本(倭国)に伝わっており、いちいち「正史」に記録する必要がないほど社会的に流布していたことによるのだろう(宮﨑06)。聖武天皇の大仏造立の直接的契機の一つとなった河内国大県郡の知識寺でも、塑像とみられる「盧舎那仏」の造営がなされていた(田中77)。これも旧訳『華厳経』の教主を、経典にみられる「善知識」の方式で、おそらく河内地域に最も卓越する渡来系氏族を中心とした広範な社会的基盤を背景に造立されたものとみられる。『続日本紀』天平勝宝元年(749)十二月丁亥条によると、聖武は、天平十二年の河内行幸において知識寺の盧舎那仏を礼拝して自身でも造営したいと念願し、天平十五年十月に紫香楽にて大仏建立詔を発している。その詔では旧訳本の教主「盧舎那仏」の金銅像を建立するとしている。ただしその後、正倉院文書によれば、平城京での大仏建立中の天平感宝元年(749)六月八日の造寺司次官の宣では、大仏「前専(臺?)」に旧訳本・新訳本がともに安置されたことが知られる。そして天平勝宝四年(752)の東大寺大仏の開眼供養会に際しては、東大寺写経所が、松本宮から「為二供養大会日一」に「花厳経一部八十巻」を奉請している。また供養会直前(四月八日が予定され実際には翌九日に開催)の同天平勝宝四年閏三月二十八日付で、写経所が新訳の注釈書である恵(慧)苑の疏一部二十四巻(『続華厳略疏刊定記』)について、「今為二供養大会日一、応二奉レ返一如レ前」として、供養会で使用する新訳の講説用の疏の返却請求をしている。このように、次第に新訳本が重視されていく様子がうかがえる。もっとも、開眼会直後の同年六月にも、旧訳本・新訳本がセットで書写されており、この時期には、旧訳本・新訳本ともに活用されたことが知られる。周知の如く、『華厳経』の「知識」の論理は、国家が主導し行基やその信者を巻き込みながら遂行された盧舎那大仏や東大寺の造営といった王権主導の仏教事業での物資や労働力の徴収に際して、税や労役を補完する手法として積極的に活用された。また、平城還都で再開された大仏建立事業では、宇佐八幡神も造営に助力し(直木55)、東大寺二月堂で天平勝宝五年(753)より開催された十一面悔過会には、若狭遠敷神も参加している(中林07a)。東大寺では、大仏造営事業や諸法会の開催を梃子として、「知識」形式により有力諸神祇をも包摂していこうとしたことがわかる。もちろん『華厳経』の「知識」の論理は、物資や労働力の徴収・動員のための論理のみならず、当然ながら宗教的側面、すなわち、王権主導の仏教教学の振興や社会・政治的レベルでの仏教を軸とした思想統合の面でも重視された。『東大寺要録』によれば、聖武が河内国大県郡の知識寺の盧舎那仏を礼拝したと同じ天平十二年に、金鍾寺において、聖武の四十歳の満賀のために良弁が『華厳経』の講説を企画し、結果、審詳が講師として招請された。審詳は新羅への留学経験を有した僧で、もともとは大安寺に所属していた(最終的には大養徳国金光明寺に遷り、そこで自寂した)。その審詳は、慈訓らを複師として同年から三年間にわたり旧訳六十巻本を講じ、初講の際には聖武・光明子らも臨席して多くの御衣や綵帛を施入したという。以後、講師を交替しながら天平二十一年(749)まで旧訳『華厳経』六十巻を中心とした講説が続けられたとされる。そして天平十六年(七四六)には聖武が「降二勅百寮一」し、「知識花厳別供」を開催して二百町余の水田を施入し352