ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

『華厳経』と日本古代国家教学面での内容の充実のために、章疏類の整備に力点が置かれた。花厳宗の講読担当仏典の整備の動きもその一環であるが、そこでは、とくに金鍾寺における『華厳経』講説の初代講師となった審詳や、複師となった慈訓の所蔵した仏典が重要であった。慈訓については、その経典類の入手経路は不明だが、彼の持つ『華厳論』や『金剛三昧経論』などにより、花厳宗の章疏が構成されたことが知られる。しかし、より注目すべきは、やはり審詳の所蔵経典であった。審詳経の多くは、彼の留学先であった新羅より将来されたものであったことが指摘されている(堀池80初出73)。また、正倉院文書中に残る天平二十年(748)六月十日付の全文一筆の「更可請章疏等目録」は、内裏が僧綱の検定の下で審詳の所蔵典籍をその管理者たる東大寺平摂の住房に貸し出しを求めた目録の写しである(中林15)。そこで請求された論・章疏のうち、元暁述の『不増不減経疏』(【表】54)、同『一道章(一道義章)』(【表】67)、同『二障章(二障義章)』(【表】69)、十地五門師述『十地五門実相論』(【表】66)、智嚴述『華厳孔目』(【表】73)は、「華厳宗布施法定文案」の選定の際に活用されたと考えられる。このほか、審詳や慈訓は新旧の『華厳疏』や『大乗起信論疏』も有しており、いずれも内裏や東大寺写経所に盛んに貸し出している。これらも花厳宗の担当章疏類の選定に使われた可能性が高いだろう。ちなみに、審詳はいわゆる外典も多数所蔵しており、これも内裏に貸し出された。その外典を含んだ将来典籍類は、七世紀後半以降とくに交流を深めた新羅との国家間関係や、それを背景とした学僧・俗人間の国家の枠を超えた「師友・同学」関係の歴史的形成に裏打ちされたものであった(中林11)。日本古代国家が主導した、南都六宗という教学・思想の枠組みとその担い手集団の確立に際して、唐から将来された一切経が重視されたのは言うまでもない。しかし、他方、花厳宗を筆頭とした各宗の具体的な教学内容面の充実を図るための論・章疏類の整備事業に際しては、新羅からの将来典籍も大きな役割を果たしていたのである。4 .むすびにかえて-平安期の華厳宗-以上に示したように、八世紀半ばの日本古代王権は、仏教を主軸に置いた思想政策を展開し、そこで『華厳経』・花厳宗はその頂点に位置づけられていた。最後に、その後の動向について概観することで結びにかえたい。南都六宗は平安期には再編され「八宗」となった(ただし倶舎宗・成実宗は実質的に、法相宗・三論宗に編入される)。その中ではとりわけ、新たに整備された真言宗や天台宗が隆盛した。ただし、真言密教の本尊の大日如来は、『華厳経』の本尊と同じ毘盧遮那仏であり、教学的にも共通する部分が多い。空海は、自著『秘密曼荼羅十住心論』では、華厳宗を真言宗の次に位置づけている。一方、最澄は、華厳教学の研鑽の中で天台智顗の学説に引かれて日本天台宗を開基した。また天台宗が依拠した『梵網経』の名称も厳密には『梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十』という。これらのことにも示されるように、両宗の教学は、もともと華厳教学に親近していたわけである。また、東大寺でも真言院が設立されるとともに、尊勝院や東南院などの塔頭(子院)を中心に、仁和寺や勧修寺など密教系寺院とのつながりを強めていく。真言・天台両宗の密教系教学の展開を支えたのは、遣唐使・新羅商船などとともに帰国した「入唐八家」により唐からダイレクトにもたらされた経典・儀軌類であったが、その中で、密教的色彩が濃いとされる般若三蔵訳『華厳経』入法界品40巻や、関連する華厳系の章疏・儀軌類も将来されている。しかし、この時期、経典類を含む唐文物を将来する上で、渤海使が果たした役割も忘れてはならない。貞観三年(861)に来日した渤海使李居正が『尊勝咒諸家集』や『仏頂尊勝陀羅尼記』を将来し、それらが石山寺や東寺に所蔵されたことなどは、その典型的な事例である。これら『仏頂尊勝陀羅尼』系の経典類は、『華厳経』に由来する「清涼山」の別名を有した唐五台山の文殊菩薩信仰と密接なつながりを有しているとされるものである(朴10)。これらの動向を受け、平安期の華厳宗も新たな展開をみせる。すなわち、南都では平安期でも、東大寺のみならず薬師寺での華厳宗の活動が史料上確認でき、東大寺と薬師寺の華厳宗は互いに教学面で競い合ったことが知られている(金05、07)。また九世紀初め、新羅で加耶山海印寺が創建されたことを受け、おそらくそれに対峙するため、日本でも、空海の弟子で真言密教にも造詣の深い華厳宗僧の道雄355