ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALパーリ語、漢訳、チベット訳、モンゴル語、満洲語など、多様な言語で訳された大蔵経は作られてきた。こうした点から、大蔵経は、仏教思想をはじめ、各国の言語および「当代」の文化的特徴を把握するには、宝庫中の宝庫といえるだろう。2011年6月、高麗大蔵経研究所主催により、「初雕大蔵経」の板刻が行われた1011年を記念して、「大蔵経千年記念国際学術大会」が韓国の大邱で開かれた。西欧における大蔵経研究者をはじめ、韓国・日本・中国などの各国の大蔵経研究者が集まった同大会において、大蔵経と関連し、言語・訳経・伝承・デジタル化(=電子化)などに関する多くの論文が発表された。このたびの国際学術会議では、当時に発表された大蔵経造成事業の大きなフロー(flow)(=潮流)、および、高麗大蔵経の造成(=制作)過程などを若干述べた上で、さらに同大会時に論議する機会のなかった内容・事項に関しても少し触れてみたい。2大蔵経造成の歴史紀元前6世紀頃、インドの仏陀(Buddha、「悟った者」)の「教え」は、「苦痛からの解放」、すなわち、涅槃寂静(Nirvana is peace)を目指すものであった。縁起・無常・空に大きく区分される彼の「教え」は、以後数世紀にわたって洗練されていく中、公式・非公式を問わず、さまざまなルートを通じ海外へ伝えられた。現存の「公式記録」によれば、その「教え」(=仏教)の最初の海外伝播とされるのは、インド初の統一帝国を建設したアショーカ大王(転輪聖王、samrat Chakravartin、紀元前265~238年or 273~232年)による伝法使節団のスリランカへの派遣であった。しかしながら、現存する公式的な記録から、その「教え」は、その後シルクロードの行商によって広く伝えられたと推測される(1)。またギリシャの記録から(2)、仏教がギリシャ文明と接し、ヘレニズムと称される東西洋文化の融合が生じていたことも確認できる。こうした過程を経て蓄積された仏教関連資料の結集といえるものが、大蔵経の造成作業で、また、この造成作業は三つに区分される。第一は、南伝(小乗(Hinayana)仏教、上座部(Theravada)仏教における造成事業である(訳者注:太字は筆者による。以下同じ)。南伝とは、口頭伝統(=口頭伝承)、すなわち、読誦を重要視するものであるため、大蔵経の記録化・文字化(=造成作業)はそれほど重視されてこなかった。いいかえれば、南伝において、大蔵経の活字化、すなわち、南伝仏教による「パーリ語聖典(Pali Cannon)」が作られるようになったのは、つい19世紀後半となってからのことである。1881年、トーマス・ウィリアム・リース・デービーズ(Thomas WilliamRhys Davids、1843~1922)の主導で開かれたパーリ語の聖典協会(Pali Text Society)で初めて、スリランカの貝葉経(palm-leaf manuscripts)をラテン語で記録する造成作業がなされ、「パーリ語聖典(Pali Cannon)」が制作されるようになったのである。このように、現在では、南伝の根幹と呼べる「パーリ語聖典(Pali Cannon)」の制作が、遅い時期に始まったのは、①南伝においては口頭伝承を基盤としてきたことと、②南伝の経典の量がそれほど多くなく、丸暗記できるほどの量であったことによるものであった。第二は、紀元前後頃シルクロードを通じ中国へ伝来されたとされる北伝(大乗(Mahayana)仏教の漢訳に関するものである。一説によれば、中国に仏教が伝来したのは、紀元前後とされる。そこで確かな点は、東アジア地域の大蔵経の刊行・印刷の前史を見ると、まず8世紀に入ってから、木版印刷が初登場したという点である(3)。そして、972年(宋の太祖4年)から983年(太宗11年)までの11年間にわたる作業の結果、木版印刷の開宝版大蔵経(4) (971~983、いわゆる蜀版(5)、あるいは北宋版、以降、戦乱などにより消失)が完成されるようになったのである。総計1076部5,048巻にものぼる仏経を13万枚もの木版に刻んだのち、千字文の順番に体系的に分類し、480個の函に保管されるようになった開宝版大蔵経は、986年には日本、990年には高麗、さらに、1019年には女真、1058年には西夏、1031年には契丹へと伝来したとされる。こうした同大蔵経の海外伝播以降、各国の大蔵経事業に拍車をかけるようになるが、そのスタートを切ったのはほかならぬ高麗であった。当時、契丹の侵入に対抗し、また、仏菩薩の加護によって外侵を阻むため、また、国民総和を実現するために造成された大蔵経、正確には、初雕大蔵経は、1011年から76年もの年月をかけて、造成に至った。360