ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

大蔵経の歴史とその背景一方、契丹でも、ほぼ同時期、すなわち、1031年から1054年までの23年間にわたって大蔵経の造成作業が進められていた。両者の最大の特徴とは、開宝版をそのまま板刻せずに、開宝版の中に含まれていない他の仏経の内容も含むようにしたことである。換言すれば、契丹は、開宝版大蔵経の発展形ともいえる初雕大蔵経を完成させたのである。ただ、残念なことに、両者ともに以後の戦乱などにより消失してしまった(6)。高麗では、初雕大蔵経の造成以来、教蔵および続蔵経が約10年の期間を要して刊行された(1091年~1101年)。その内、大覚国師の義天によって造成された教蔵における最大の特徴は、初雕大蔵経には包含されなかった宋・遼・日本の経典と、三蔵の注釈書である章疏が、それに書き入れられたことである。教蔵の目次(目録)は『新編諸宗教蔵総録』(いわゆる「義天録」)であるが、同総録には、経に対する章疏561部2586巻、律に対する章疏142部467巻、論に関する章疏307部1687巻、総計1010部4740余巻の注釈書が収録されている。しかし、初雕大蔵経と同様に、この章疏もまた、1232年のモンゴル軍の侵入によって、その経板はいうまでもなく、印刷本まで消失してしまった(7)。初雕大蔵経と教蔵の消失以降に制作されたのが、高麗大蔵経もしくは八万大蔵径と称される「再雕大蔵経」である。同大蔵経は、現在ユネスコ人類文化遺産に登録されている。1236年から1251年までの16年間にわたって制作された同大蔵経は、総計1547部、6547巻で、経板数だけで8万1258版にものぼるものである(8)。この大蔵経は、漢訳の大蔵経の集大成ともいわれている。中国の金・元・明・清でもさまざまな版本が作られてきたが、それらはすべて木版印刷のものであった。だが、決して再雕大蔵経を凌駕するほどのものはなかった。しかし、こうした高麗大蔵経を初めとする木版印刷の時代を終わらせたのが、その後登場する日本の大正新脩大蔵経(1922~1934)である(9)。この大正新脩大蔵経は、高麗大蔵経をもとにし、インドのサンスクリット経典、パーリ語の原典、中国の漢訳の経典を比較検討し、また、関連する膨大な資料を収集・整理したもので、総計110巻、3053部、11970巻にものぼるものである。その中には、敦煌写本1巻、図像部12巻、目録3巻などが含まれるなど、既存の木版本とは異なる特徴が認められる。かくして、活字印刷(本)の時代が到来すると、木版本である高麗大蔵経の権威は崩れていった。その結果、現在において、仏教学者は、日本の大正新脩大蔵経を「底本」にしている。印刷メカニズムの発達によって誕生した大正新脩大蔵経の権威は、今日ではもう絶対的なものとなっているのである。第三は、もう一つの北伝仏教と呼べるチベット仏教である。これは、8世紀以後、インドの後期仏教をそのまま伝授したものといわれる。同仏教における最大の特徴は、インド後期における経論・注釈のすべてを包含しているため、その量が漢訳の大蔵経とは比較にならないという点である。「漢訳大蔵経である大正新脩大蔵経全巻(32巻)の中には、1692部のインド仙術の経論が収録されている。それに対し、チベット語訳の北京版の全巻(150巻)には、1055部の経典、3962部の論書、計5017部が収録されている。約3倍にもなる量である」(10)。このように、漢訳大蔵経と比べ、その量が3倍にも達するのは、中国には伝わらなかった密教部の経典などのインド「源流」の経典がそれに含まれているからである。チベット大蔵経における歴史は、チベットの歴史と実に密接な関係を持つが、それは、チベットにおいては、仏教が王権強化という政治的目的から導入されるようになったためである。事実、チベットの歴史が、①前伝期(EarlyPeriod、~10世紀)、②休止期(10世紀)、③後伝期(Later period、11世紀~)に分けられるのは、そうした事情による。少し詳しく述べると、「前伝期」、すなわち、「王の時代」(=「法王の時代」(11) )は、チベットの3代法王などが、ヒマラヤ山脈からミャンマーにわたる地域と天山山脈から中央アジアにわたる地域で、唐と軍事衝突を頻繁に起こし、征服事業を進めながら、強力な中央集権国家体制を求め、文字を創り、寺院を建立し、また、仏経を輸入・翻訳したりした時代であった。換言するならば、後代に形成されたと思われるただの「不法統治時代」とはかけはなれ361