ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALIはじめに霊山会上図とは、インドマガダ(Magadha)国の霊鷲山で釈迦が説法する場面を図解した仏画であるが、その後、同図は、徐々に霊鷲山での説法を代表する法華経説法場面として認識されるに至った(1)。韓国では、朝鮮時代の釈迦を主仏とする大雄殿の後仏幀画が最も有名である(図1)。韓国では、中国や日本とは異なり、仏殿荘厳においては、仏壇の後ろに必ず仏画がかかっているのが特徴である。そのため、仏像が奉安されているにもかかわらず、その後ろの後仏幀画にも本尊仏が表現されている。すなわち、仏壇の上に主尊仏像が二重表現されることが特異な点である。このような奉安方式のため、朝鮮の霊山会上図は、韓国でしか見られない特徴的な図像として認識されてきた。しかしながら、図像の名称が意味するところは異なり、霊山会上図には霊鷲山を象徴する表現どころか、法華経の説法に関する表現さえ見当らない。では、なぜ同図像は、霊鷲山と法華経を象徴するようになってきたのか。これを明らかにするために、霊山会上図像の原型完成以降、霊鷲山と法華経の意味合いがそこに付け加えられるようになった過程について考察してみよう。Ⅱ霊山会上図の起源朝鮮時代の霊山会上図は、きわめて独創的なものであるが、同図像の基本枠は、中国の法華経変相図が製作された時にはもう既に形成されていたことが確認される。それどころか、インド・ガンダーラの仏教美術においても、その始原的形態がみられる。代表的なものとしては、パキスタン・ラホール(Lahore)博物館の大型の仏説法浮彫が挙げられる(図2)。無論、朝鮮時代における霊山会上図の製作者が、ガンダーラの浮彫を参考にして、それを製作したとは考えにくい。同図像は、それが東漸する長い期間中、何回も変化したため、朝鮮時代における仏画製作者がインドの原型に関する概念を身に付けていたとは考えにくいのである。それにもかかわらず、同作品の持つ本来の意味に加え、その意味が伝来していくうちに、付加された新しい意味は蓄積され続け、朝鮮の仏画製作者に伝わってきたはずであろう。そこで、ラホール博物館の仏説法の浮き彫りが、いかなる点において、朝鮮時代の霊山会上図と関連性を持つのかを確認する必要がある。まずは、結跏趺坐した本尊仏座像と兩脇侍菩薩立像の三尊仏が中心となる構造が共通している(2)。霊山会上図像において、本尊仏は多くの菩薩に取り囲まれているが、その中でも最も目立つものは、前面にある二体の菩薩である。ラホール博物館の仏説法図の下端には、本尊仏が座っている大きな蓮華の幹を支えている竜王と竜女のグループが描かれている。それに対し、霊山会上図には、四天王が画面の下端に配置されている。大まかに言えば、竜王および四天王が守護神衆という点に共通点がある。三尊仏の左右には多くの菩薩が配列されているが、これら菩薩が置かれている空間は、きわめて観念的といえる。すなわち、実際に、人々が釈迦を取り囲んでいるようには表現されず、幾多の尊像を何重にも積んだ仮想空間に配列しているのである。こうした配列がよく見受けられる東アジアの視覚とは異なり、実在空間の概念の中に、聴衆が配置されているガンダーラの初転法輪の説法図などは、実在空間と観念的空間との違いを示す。ラホール説法においても、浮彫の上端の左右の端には、「多仏化現」と称される場面が描写されている。だが、仏像の肩に化仏が発現されるかのように見えるその場面は、海印寺の霊山会上図においては、多数の仏像が月、もしくは太陽が浮上してくるように表現されている(図3)。一見、こうした共通点は偶然にも見える。酷似しているのが一要素に限られるならば、それは偶然である可能性も排除できない。しかし、数多くの要素・構造が共に見当たる場合は、それが単純な偶然だとはいいがたい。しかも、こうした構造は、一作品にとどまらず、ガンダーラでは、いわゆる「舍衛城神変」という類型として定着しており、さらに、朝鮮の仏画においても、それは「霊山会上図」という類型として定着してきた。要は、それが偶然である可能性はきわめて低いのである(3)。一応時空間的に大きな違いが見られる、二者の連関性を完全に明らかにすることは困難であろう。にもかかわらず、二者の差異点と共通点に焦点を当てるのは、間違いなく建設的な議論となろう。結論を先取りすると、朝鮮時代における霊山会374