ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL形で登場してくる。台湾の故宮博物院所蔵の北魏の太和元年(477年)銘の金銅仏坐像の光背の後ろに刻まれた図像には、当時、北魏の仏教徒が理解した何種類もの経典が具体的に挿入されている(図9)。まず、三尊仏の構成と、その脇侍菩薩が花を振り撤いているようなモチーフは、ラホール博物館の説法浮彫と酷似している。殊に、花冠を付けている姿が、仏陀の頭の上に表現されているのとほぼ同様の構造である。そこでの聴聞菩薩は、既存の図像と異なり、仏陀の説法に集中しながら、合掌をしている。ちなみに、自由奔放な姿も見られない。その代わりに、そこには、画面の下段に釋迦牟尼の誕生シーンと入浴シーンが、上段には、『法華経』「見宝塔品」および『維摩経』の維摩・文殊の問答の場面が図解されている。この点が注目に値する。いまだに具体的な確定ができていない、インドガンダーラの大乗的な説法図像とは違い、そこには、仏伝の場面に加えて、『法華経』・『維摩経』という具体的な大乗経典が示されている。無論、インドガンダーラの図像にも、具体的な内容の経典は表現されている。だが、明らかに、現在の視覚からして、把握しにくいところがある。例えば、ラホール博物館の説法の浮き彫りと脈を一とするペシャーワル(Peshawar)博物館所蔵の説法の浮き彫りの場合は、その上端に、塔婆が表現され、そして、その両側には仏立像が見られる(図10)。これは、インドの「見宝塔品」に見られる釈迦・多宝の表現である可能性がある。だが、これには、東アジアの視覚との違いが見られる。しかし、それはさておき、東アジアでは、そうしたモチーフは、二仏竝坐像のモチーフに再解釈されたものと思われる。また、文殊と維摩のみが龕室の内に描写されていることも、ラホール博物館の説法の浮き彫りに見られる本尊の左右上端の龕室内に座る菩薩像からその起源を探ることができる。北斉時代における仏碑像では、そうした構造を採用しながらも、維摩経変相図という性格をより強調した。北斉天保10年(559年)、仏碑像としては、三尊仏が中心となっているが、それに羅漢像が追加されており、最外側には、力士が侍立している(図11)。下端には、竜王の代わりに、香炉が並んでいる神衆が表現されており、そして、竜王・竜女の代わりに、左右の供養人が登場する。その上、聴聞菩薩は、維摩と文殊菩薩の間に再配列されている。文殊と維摩は、やはり龕室の?に座っている。そして、最上端には、龕室の内には、兜率天宮の彌勒菩薩とも見られる菩薩半跏像が描写されている。この兜率天の世界は、輪迴転生を何回も経て、善業を磨いた菩薩の最後の住処としての性格を持つ。ただ、これは、ラホール博物館の仏説法図の多仏化現の延長線上のものとも思われる。もし、多仏化現の場面が、多様な空間において顕現する仏陀の姿を示したものだとすれば、兜率天は、多様な時間において顕現する存在が最後にとどまるところであるからである。加えて、この碑像において看過してはならないものが、本尊仏と脇侍菩薩との間の、法螺貝のような髪形をしている脇侍尊像である。この二体の尊像は螺髻梵王であると明らかにしてきたが(4)、これらは『維摩経』にも登場している。この螺髻梵王は、こうした類型の図像が『維摩経』の意味合いを持たなくなってからも継承され、朝鮮時代の霊山会上図においては他方仏(多宝仏および阿弥陀仏)と解釈されるようになった。この他方仏が螺髻梵王とほぼ同様の髪形をしているのは、おそらくそれが朝鮮時代の「霊山会上図」が維摩経変相図から派生したことを示している(図12)。Ⅳ「大乗説法」から「法華経説法」へこうした大乗仏教的説法図像は、隋時代に至り、徐々に法華経変相図の強い性格を持つようになった(5)。例えば、莫高窟の隋時代に作られた石窟である420窟では、先に言及した天保10年銘仏碑像を拡大し法堂に奉安したかのような姿をしている(図13)。上端の左右には、相変わらず、文殊・維摩の問答の場面が、比較的大きな比重を置く形で描写されている。ところで、この石窟の天井には、法華経変相図が多く描かれている。莫高窟の419窟は、正面の龕室の真上に兜率天宮が描写されている。こうした図像は、天保10年銘仏碑像から起源した痕跡といえるものである。初唐時代における莫高窟57窟では、上端の左右の文殊・維摩の問答の場面が、釈迦菩薩の白象入胎と出家の場面に取り替えられている(図14)。そして、維摩経変相図を分離し、石窟の側壁に徐々に独立した形で広がる描かれている。57窟の天井には千仏図は描かれているが、正壁龕室の説法図像は一つの基本図像として示されている。376