ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

雲山会上図像の形成過程と拡散それにより、天井や側壁に何が描かれているのかによって、それは多様な意味を持つようになる。無論、盛唐時代における莫高窟45窟の正壁上端の天井に、見宝塔品の場面が描かれているため、「法華経変相図」としての性格も、ある程度は継承されているとみなされている(図15)。晩唐~北宋時代に至っては、霊鷲山説法であることを強調するために、上の説法図像の周辺に、山岳が明確に描かれることもあった(6)。莫高窟85窟の「法華経変相図」が、その代表的なものであるが、実は、ここで中心となる説法図は、以上で取り扱った霊山会上図の類型の図像ではない(図16)。それは、別の系譜を持つ図像として扱うべきものである。例えば、霊山会上図像には、三尊仏の左右脇侍菩薩が立像であるが、晩唐時代以後、霊鷲山が描写されている法華経変相図のほとんどは、菩薩が坐像に描写されている。それが相違点である。例外に、日本の京都の清凉寺の釈迦仏立像の腹藏物から発見された霊山変相図は、後ろに山岳を配置されているものの、本稿において論じてきた説法図像の基本構成を維持している。同図像は、南宋時代には、法華経変相図の中心図像としての確固たる座を占めていた。京都の雲竜院所蔵の南宋時代の法華経変相図は、莫高窟の隨~盛唐時代における正壁龕室の図像配置を比較的忠実に従いながら、絵画的な構造を有している(図17)。同変相図が、朝鮮初期に、そのまま復刻され、そして流行したという事実は、韓國江原道上院寺の文殊童子像の腹藏遺物から発見された法華経変相図(1404年)からも確認できる。これを通じ、韓国では、中国の仏殿または石窟の荘厳を直接に目にすることができなかったとはいえ、以上のように、法華経変相図などを受け入れる形で、後仏幀画へと発展させ、仏壇にかけたと推定される(図18)。Ⅴ法華経を超越した変容中国で経変相図の形で伝来された霊山会上図は、韓国では大雄殿の後佛幀画に定着していくが、日本の場合は、中国の伝統を正確に理解し、仏殿の中に主要尊像を彫刻像に奉安したと見られる。そのため、日本では、韓国の霊山会上図のような総合的仏画が見当らない。ただ、興福寺で12 ~ 13世紀に製作された興福寺曼茶羅図においては、部分的に霊山会上図の類型の図像が継承されたことが確認される。当時興福寺の各殿閣を象徴していた図像的意味を図解したものの、同仏画は、実は、各殿閣の一つ一つの配置方式が、「霊山会上図」(もしくは「法華経変相図」)の尊像配置と酷似しているのである。特に、東金堂を描いているところは、菩薩立像を脇侍とした三尊仏を中心に、仏・菩薩と神衆に囲まれている(図19)。ラホールの説法図で、本尊仏の頭の上に花冠を付けた緊那羅と見られる天人は、八部衆に代替され、そして、竜王・竜女は、四天王に取り換えられるなどの大きな変化の中でも、元々の基本的な図像構造は継承され、多仏化現または聴聞菩薩群は天井および龕室の荘厳に吸収されているのである。日本の場合は一歩進んだ形で、胎蔵界曼茶羅のような密教絵画を発展させた(図20)。それは、胎蔵界曼陀羅という霊山会上図の尊像配置を、より観念的な視覚から再構成しようとしたのである。詳しく述べると、正面で説法を眺めている古典的視覚から脱し、上から見下ろしているような構成に変化し、これを正四角形の構図の中に再配置したのである。ちなみに、中央に配置された三尊仏の説法は、五方仏と間方の菩薩座像に変わってはいる。だが、多様な聴聞菩薩・上端の他方仏・下端の忿怒尊の配置という全体的な構図は、確かにかつての霊山会上図を土台としている。ただ、密教教理によって変化したところが見受けられる。要するに、朝鮮の霊山会上図は、霊鷲山での釈迦の説法を、時空を超越し仏殿の中に再現することによって、仏教徒がまるで釈迦の説法の現場に入っているかのように感じさせようとする意志が反映されている。そこから発展した密教の胎蔵界曼陀羅は、抽象的な法身を視覚的に具現化して、仏教徒がこれを体験できるようにした装置でもある。そのため、このような図像は、大乗仏教の経典を図解するために創案されたが、それ以降は、霊鷲山から密教に至るまで、最も重要な仏教図像の一つとして座を占めるようになったのである。注(1) ?樹の『大智度論』によれば、霊鷲山は、大乗仏教を説いた場所である。そして、玄奘の『大唐西域記』によると、同山は、法華経などを説いた場所である。(2)同図像の三尊仏が持つ意味に関しては、宮治昭「第2章ガンダーラ三尊形式の両脇侍菩薩の図像」『涅槃と弥勒377