ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

漱石とロシアの世紀末文学―「それから」の周辺―言わば、情報化の進展というものがあります。トルストイは1899年ごろ、「復活」を執筆しながら、その収入をドゥホボール教徒の支援に充てるために、原稿をロンドンの出版社に送ってロシアとイギリスで同時出版を行なうということをしています。また、英語、フランス語、ドイツ語への翻訳を同時に進めさせる、といったこともしていて、国際的な《文学の同時性、同時代性》といったことが生じています。そして、そういったコンテキストのなかではじめて、ヨーロッパにおけるアンドレーエフ・ブームといったものも、また、数年遅れではあっても、そのブームが日本にも伝わるという現象もおぼろげながら理解できるはずです。それは、国の違いを越えた《世界文学》の読書とも言うべきもので、魯迅が周作人と帰国直後に出した、『域外小説集』の、アンドレーエフ、ポー、ワイルド、モーパッサン、チェーホフ、シェンキェヴィチといったバラエティーに富んだ、悪く言えば雑多なラインナップも、当時の日本のそういう読書世界というものの産物の一つと言えるでしょう。さきほど名前を挙げた、アルツィバーシェフの代表作「サーニン」には、武林無想庵による重訳がありますが、例えば、〈植竹文庫〉の1冊として刊行されたその本の広告には、〈植竹文庫〉の続刊として生田長江・生田春月共訳の『罪と罰』が挙げられているほか、同じ出版社の〈文明叢書〉の広告のなかには、〈チヱヱホフ作小山内薫訳〉の『決闘』、〈ブランデス作中沢臨川訳〉の『露西亜印象記』、〈チヱヱホフ作広津和郎訳〉の『キッス』、〈トルストイ作林?南訳〉の『闇の力』、〈ツルゲーネフ作馬場哲哉訳〉の『初恋』といったロシア関係の書目が出ています、さらに、〈植竹文庫〉で『罪と罰』を出す生田長江は〈文明叢書〉のほうではワイルドの『サロメ』やゲーテの『若きウェルテルの悩み』を訳しており、広津和郎はワイルドの『獄中記』を訳している。大変賑やかですが、その大半を重訳が占めています。そしてそれらの翻訳に交じるかたちで、ドストエフスキイの『悪霊』の重訳をやっている森田草平の『煤煙』縮刷版の広告が出ていて、そのほか、〈文明叢書〉のなかで小説作品を出しているのは、鈴木三重吉、谷崎潤一郎、正宗白鳥、岩野泡鳴、相馬御風、田山花袋、徳田秋声といった面々であり、これを見るだけでも、大正初年当時、当時日本の第一線の作家たちが、むしろヨーロッパの著名作家たちのあいだに混沌として立ちまじって読まれていたのが現実であることが知られるのです。重訳の持つ意義2年ほど前、加藤百合さんの『明治期露西亜文学翻訳論攷』という大著(10)が出版されましたが、そこでは、「職業翻訳家がまだ存在しない時代、翻訳の動機はただひたすら、この作品を日本語にしてみたい、という衝動しかない」「ロシア語ができるとかできないとか、だから正しく訳せるとか訳せないとか、今では翻訳にとって最も基本となる事実の前で足踏みする遑はそこにはない。日本の文学の発展と自分自身の成長の可能性に貪欲な若い時代であった」(序)。したがって、「原典からの直接訳に限る、といった条件を一切はずし、本人が翻訳だと言っていればまずそれを翻訳と考え」「従来軽視どころか疎外されてきた「重訳」も含めて論攷の対象とする」(あとがき)と述べられています。重訳が当時の読書界に持った意味を的確に表わす言葉だと思います。その当時としては、そういう新しいかたちの《読書》ならびに《読書界》というものが、漱石のまわりに成立していたということができると思います。そして、漱石のこの頃の読書というものは――少なくともその一部は――作家としての抜き差しならぬ個人的・主体的な研究とは、性質の違うものなのではないでしょうか。もともと漱石にとって英語で英文学を読むことは、作家として、また広く文学者としての背骨をなしています。それは英文学の影響などというようなレベルのものではありません。そして同様のことは?外にとってはドイツ語でドイツ文学を読むことであり、二葉亭にとってはロシア語でロシア文学を読むことであったわけです。しかし、「それから」の時代には、それとは異なるレベルの――ある意味、それは低いレベルかもしれませんが――しかし、かなり濃密な空気を、個人的にではなく、共同で醸し出すような読書という共同行為が行なわれていたように思われます。漱石の場合、小宮豊隆をはじめとする門下生たちの役割が大きなものでした。漱石自身が訳読の輪に加わるというのはむしろ例外であっても、門下生たちが、やはり言語にこだわらない、研究的ではなく407