ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL下宿を訪ね、1ヶ月半ほど同宿をいたします。このとき、自分とほぼ同じ世代の化学者がドイツで華々しい成果を上げたことに、漱石はうらやましいなと思ったんですね。おそらく文学の研究と違って、サイエンスの研究というのは、国境を越えてコスモポリタンにできると。だから、結果が明晰に出てくると。何を言ってんのかごちゃごちゃ分からない文学とは違うんだという印象をものすごく強く受けるんです。それで、行き詰まってるところを打開するために、活動を文学書を読むんじゃなくて、科学の研究の方にシフトしたいと考えるようになったんじゃないかなと思います。奥さんにあてた手紙の中にもこういう一節があります。「最近は文学書を読むのがいやんなっちゃった」。「詩なんか読んでも何だか分からない」。「分かった振りをするのは金がないのに金があるような振りしてる人間と同じだ」っていうようなことを言ってるんです。文学書を行李の底に詰めちゃって、今何を読んでるかっていうと科学の本ばかり読んでる。一生懸命シコシコとノートを取ってハエの頭ぐらいの小さい字でノートをたくさん作ってる。これを土産にして日本に帰って一大著作をものしたいようなことを書いているのです。日本に帰ってきまして、東京帝国大学で英文学の講義をする。それを、今申し上げましたように文学論と文学評論にまとめるんですが、文学評論の中にこういうふうに書いてるんです。「世間一般の人は文学と科学っていうのはまったく異なる活動であるというふうに思ってる」。ところが、「自分はそうは思わない」って言うんです。「文学の研究も科学的にできるんだ」と言うわけです。普通の人はそう言われても納得しませんね。わたしも納得しません。だから、納得させるためにレトリックを使って漱石はこういう説明をしてるんです。これ、漱石がよく使う常套手段なんです。たぶん自分で考えたんだろうと思いますけれども、彼の著作を読んでるといろんなところに出てきます。ある種ムキになって人がなかなか納得しないことを論破して理解させようと思うときに使うレトリックなんです。こういうふうに言ってるんです。世間の人は文学は科学じゃない、科学的に文学なんか研究できるものかと言う。しかし、そうじゃないと言ってるんです。「花は科学ではない」。「鳥も科学ではない」。しかし、「植物学は科学じゃないか」って言うんです。「動物学は科学じゃないか」って言うんです。分かりますか。「花は科学じゃない。しかし、植物学は科学である。鳥は科学じゃない。しかし、動物学は科学じゃないか」。同じように「文学は科学じゃない」。しかし、「文学の研究は科学だ」と言ってるんですね。これ、スッと読んじゃうと、漱石を信奉してるファンっていうのは多いですから、ああ、そうなんだなと思っちゃうんです。騙されちゃいけないんです。何がうまいかっていうと、Aは何々である。Bは何々であるっていう、そこで共通の概念を作っちゃうんです。同じだなと思わせちゃうんです。そこでポンと話が飛ぶんです。花は科学じゃない。鳥は科学じゃない。文学も科学じゃない。そうすると、花と鳥と文学が同等に扱われるように思っちゃうでしょう?そうすると、植物学は科学である。動物学も科学である。このように、ポーンと飛ぶんです。文学の研究も科学じゃないか。そうはいきません。そうはいかないんです。これは、論理的におかしいところが2つあります。気がつきますか?まず、科学というのは人間の知的営みを指しています。漱石が文学評論の中で使った言葉を借りると活動になるわけです。実験をする、観測、観察をする、数理的解析を施す。そこから普遍的な法則を導き出す。そういう営みがサイエンス、科学なわけです。それに対して、花とか鳥っていうのは、科学が研究する対象なんですね。研究対象です。つまり、実体なんです。物なんです。ですから、鳥は科学じゃないとか、花は科学じゃないってそれだけ言われると、ああ、そうかなと思うわけです。確かに花は科学じゃないですね。鳥も科学じゃない。そうかなあと思うんですけれども、これは一般的な表現に置き換えると、いかにめちゃくちゃかっていうことが分かります。実体は営みじゃないって言ってるんです。これ、何の意味もありません。あるいは言う必要のないようなことなんです。ですから、そこでレトリックを使って、何とか強引に文学研究も科学にしたいと思ったんですね。レトリックをどこまで意識してたかはよく分かりません。よく分からないけれども、たぶん何とかやりたいけども、自信がどこまであるかなあっていう、揺らぐ気持ちがあったんじゃないかなあと思います。それで、こういう方法を使ったんでしょうね。410