ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

漱石の科学への関心科学の研究方法っていうのは、真理をつかみ出す手段として人間が見つけた最もパワフルなものだと思います。ですが、これは研究対象の性格に規定されてるんです。近代科学が生まれましたのは、だいたい17世紀に入ってからのことです。ですから、実験をするとか、観測、観察をするとか、数理的な解析を施すという、現在の科学の手段のベースになってるものっていうのは、17世紀になってから編み出された手法なんです。それまではないんです。だから、別の言い方しますと、それまで今、われわれが認識してる自然科学という学問、知的営みはなかったと言ってもいいと思います。あるとき、たとえばガリレオだとか、デカルトだとか、ニュートンだとかが出てきて、今言ったような科学的な方法をある特定の対象に施すと、法則を見つけ出して解析がうまくいくっていうことが気がついたんですね。つまり、何かの法則を発見した、万有引力の法則を発見したとか、落体の法則を発見したという個々の発見の事例だけじゃなくて、科学的な研究手段というものが、ある特定な研究対象にすごく有効であるっていう発見があったんです。ですけど、これは研究対象の性格がガラッと変わっちゃうと、万能性はありません。何でもかんでも使えるわけじゃないんです。ですから、文学の研究をするときに、科学的な手法を持ってきても、どだい無理なんです。文学研究に行き詰まったとき、漱石はまだ若いときですから、ロンドンに行って一人で悩んでて、なんとかそこを打開しようと思って新機軸を打ち出そうとした意気込みは買いますけども、それをどこまでも強引に引っ張ってこうとしたときに、こういう失敗をするんですね。今言ったように、Aは何とかである。Bは何とかである、Cは何とかである。だからと言って共通の概念を持たせといて強引に結論を持ってくるということは、決してうまくはいきません。漱石は人生の前半は、英文学の研究者の立場だったと思います。後半は、自分が作品を作るという立場になって、言ってみれば、研究対象になっちゃったわけです。ですから、100年経っても、これだけ漱石の研究書っていうのはたくさん出てるんだろうというふうに思います。幸か不幸か、英文学の研究をやるという立場を捨てて、つまり、東京帝国大学を去って、朝日新聞の専属の作家になった結果、今言ったような誤解を強引に突き進んでいく失敗を避けられたんだろうというふうに思います。良かったと思います。つまり、そのまま、帝国大学の教授になっちゃって、こういうわけの分からないことを強引に、立場上研究を続けてると、彼の人生は非常に寂しかっただろうと思います。実作家になったおかげで、たくさんの名作を生み出して、われわれは今、それを楽しんでるわけです。だからそういう意味で言うと、後世の人間にとっても幸福だったですけれども、漱石自身にとっても良かったと思います。今言ったレトリックは漱石の常套手段で、これは作品を読みますと事例はいっぱいあります。だいたいどういうとき使うかというと、ムキになって人に反論したかったり、それから世間の常識を打ち破ろうとしたいときに、漱石はこの手段を使うんです。彼は反骨精神が非常に旺盛でしょう。権威を有難がって、それに従うというような姿勢をものすごく嫌いますね。漱石は、ちょうど40歳のとき東京帝国大学を辞めちゃう。朝日新聞に入るわけですね。今だと大学を辞めて大新聞社に入るっていうことは、それほど奇異な印象を与えないかもしれません。しかし、当時は帝国大学の先生の職を捨てて、新聞社に入るっていうことは相当に常軌を逸したことだろうと思うんですね。今日の後援に朝日新聞も入っていますが、別に朝日新聞の悪口を言ってるわけじゃありません。当時の世相としてはそういうことだろうと思うんです。ところが、漱石はあえてそういうことをやります。つまり、教授の地位なんていうものに対しては執着しない、それ有難がってるっていうのは、世間一般の人間がおかしいんだっていうことを言うわけです。有名なのは、博士号辞退事件です。あれは明治44年つまり、朝日新聞に入った後のことです。今、博士号というのは、大学が授与します。ただ、当時は、文部省つまり、お上が博士号を出してたんですね。漱石は学問にしても芸術にしても、評価をするのは、それを鑑賞する人がすればいいんだと考えていたわけです。あるいは、学者の仲間内で評価すればいいんだと。お上の権威を持ってそういうことを評価するっていうことはけしからんという基本的な姿勢があるわけです。だから、文部省から博士号を411