ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

ページ
417/542

このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている417ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

漱石の科学への関心フィジカル・レビューに載った論文見ると、アメリカじゃ福神漬っていっても通じないと思うんだけども、なるほどそんなような容器が置いてあるんですよ。『三四郎』の中では「ウワバミの目玉のようなものがキラキラ光ってる」と書いてるんですけど、キラキラ光ってるというのは2つの雲母でできた円盤なんです。そこに光をあてて反射させ反跳を捕らえて、光の圧力を測ろうという工夫をしてるんですが、なるほど、論文を読むと、そうなっています。だから、多少は寺田寅彦のレクチャーを受けたり、「君ちょっとここよく分かんないけど、おせえてよ」っていうようなことを言ったのかもしれないんですけれども、まったくチンプンカンプンだったらそれは理解できないでしょう。ましてや作品に使おうということはないと思うんですけれども、漱石には物理を理解する知識はあったんだと思います。ですからその点で言いますと、寺田寅彦が追悼文に書いてるように、「文学者としては珍しく科学に対する関心が深かった」っていうのはあってると思います。いちばん作品の中で科学をうまく活かしたのが、今日の午後のテーマになってます『明暗』だと思います。『明暗』に津田という主人公出てきます。新婚6ヶ月。やな奴ですね、この男。わたし、大嫌い。「豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ」って怒鳴りたくなるような、やな奴。ずるいですよ。優柔不断。キョロキョロしてる。津田が結婚するつもりで付き合っていた清子さんっていう、美人の元恋人が心変わりして、ほかの男と結婚しちゃうんですね。自分は今の奥さん、お延さんと一緒になるんです。結婚して6ヶ月後、津田は、「痔の手術をしなさい」って病院でお医者さんから言われるんです。そんな奴だからバチあたったんじゃないかと思うんですが、誰だって、「手術を受けなきゃいけない」って医者から言われれば気が滅入りますよね。そういう書き出しで『明暗』は始まるんですけれども、病院から帰る道すがら、津田はこういうことをグダグダ言うんです。数日前に友人からポアンカレーというフランスの科学者の「偶然」っていう話を聞かされたって言うんです。ポアンカレーってご存じですか?19世紀の終わりから20世紀のはじめにかけて、数学、それから物理学、天文学に活躍した、言ってみれば万能選手です。時代がアインシュタインと重なるんでやや世間一般の人からの知名度は落ちるんですけれども、アインシュタインに匹敵するぐらいの超大物です。この人が1908年、『明暗』を漱石が執筆する8年前に『科学と方法』という本を書いてるんです。その中に、漱石が『明暗』に使った「偶然」という文章があるんです。この「偶然」という文章を寺田寅彦が1915年、つまり漱石が『明暗』を書く前年、翻訳をして、今もうなくなっちゃいましたけれども、『東洋学芸雑誌』っていう雑誌に載せてるんです。だから、漱石は寺田寅彦からその翻訳をもらったんだと思うんです。読んだんだと思うんです。それがインスピレーションになって『明暗』を書いたかどうかは分かりませんが、作品を通して、伏流水か通奏低音に感じるようにポアンカレーの「偶然」っていう文章が流れてくんです。ご承知のように『明暗』はものすごく長い作品です。漱石の作品の中でいちばん長いです。長いけれども、未完で終わっちゃってるでしょう。大作が未完で終わると読んでる人間の欲求不満っていうのは大変なものですよね。ヴィーナスって腕ないでしょう。左腕は肩からないですね。右腕も上腕からしか残ってない。あれ、どういうポーズとってたんだろうって知りたいですよね。でも、腕が出てこないことには分かんないよね。シュミレーションする以外にない。『明暗』の場合はまだ書かれてないから、あったものが失われたわけじゃないですけれども、完成品としてあるべき部分がないという点では同じですよね。だから、ヴィーナスの腕を探すみたいにいろんな文芸評論家がこういう結末になるんじゃないかっていうシュミレーションをしてます。実際に書いちゃった作家の方もいますね。こういうふうになるんだっていう。だけど、シュミレーションは所詮シュミレーションなんで、結局欲求不満が消えないんですけれども、このポアンカレーの偶然を冒頭の部分、新聞の連載で言うと2回目ぐらいのところですかね、使ってるんです。病院を出て、帰る道すがら手術しなきゃいけないと暗い気持ちのときに津田がこういうことを言うんですね。「いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね」。「ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の415