ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

漱石の科学への関心この時点で、登場人物はもう全員出揃ってます。彼らのキャラクターやパーソナリティ、立ち位置っていうのも全部詳しく書かれてるわけです。お互いの関係、相関っていうのも詳細に記述され尽くしてます。そうすると、結論がどうなるかっていうことなんですよ。つまり、そこからみんなシュミレーションを文芸評論家なんかしてるんです。わたし、いちばん面白いなと思ったのは大岡昇平のシュミレーションです。大岡昇平は純文学作家ですけれども推理小説も書いてますから、そういうのは得意だったっていうか、面白いなあと思って書いたんじゃないかなあと思うんですけれどもね。ポアンカレーの話にちょっと戻りますけれども、ポアンカレーが言ってる偶然です。これは何かっていうと、当時、蔓延してました、ニュートン力学に基づく決定論という自然観にもとづいています。ニュートンの運動方程式という式があります。ここにある情報をインプットして計算を実行すると、自動的に答が出てくるんです。自動販売機みたいなものなんです。ただし、さっき言いましたように、その自動販売機を使えるのは研究対象が科学の研究方法に合致する属性を持ってるものじゃなきゃ駄目です。文学研究は駄目です。ニュートンの運動方程式はそこに何をインプットするかっていうと、たとえばリンゴでもいいですし、落雲館の生徒が野球の練習に使ってるボールでもいいですし、あるいは月の動きでもいいですし、惑星の動きでも何でもいいんですけれども、調べたい物体の運動状態、つまりいつ・どこにいて・どういう方向に動いてるか・どういうスピードで動いてるかっていう情報を入れて、それから、そこに作用する力、ほとんどの場合は重力ですね。万有引力。それを入れて、計算をチャカチャカチャカっとすると答が出てきちゃうんです。その答は、計算さえ間違えなければ誰がやったって同じ答が出てくるんです。ノーベル賞物理学者がやっても、早稲田の1年生がやっても、同じ答が出てくる。これはすごいことですよね。つまり、初期条件って言うんですけれども、原因を設定すると、結果は一意的に出てくるんです。原因と結果が1:1に対応するんです。これがニュートン力学の特徴なんです。つまり、ニュートン力学で記述されるような現象に関して言うと、偶然っていうことは起こりえないんです。必ず必然になっちゃうんです。結果が決まってるから。ところが人間は、特定の範囲内ではニュートン力学使って計算できますけれども、森羅万象や人間の心の動きや社会活動全般まで、計算できませんよね。つまり、津田が言う複雑な要因がいっぱい交じり合って、些細な要因が大きな結果を引き起こすと。これ、バタフライ効果って言うんです。だから、分からないわけですね。ですから、ポアンカレーが言ってるのは何かっていうと、世の中は、本質的には必然なんだ。偶然っていうのはないんだと。だけど、人間の計算能力、あるいは情報収集能力っていうのが、限界がありますから、全部分かるってわけにいかない。だから、原因が全部掴めなくて計算できなかった結果が出てきたときに、「あ、偶然だね」って言うんだって言うんですね。もし、ニュートン力学を完全に駆使をして、宇宙全体の情報を瞬時に取り入れるようなことができるスーパーインテリジェンスですね、超知性というのが存在するとすれば、彼は計算しちゃうわけです。ニュートン力学使って。そうすると、偶然っていうことは起こりえない。結果っていうのは100%分かるっていうことなんですね。これを言ったのは、ポアンカレーより100年ぐらい前、フランスのラプラスっていう大数学者です。この人は、ニュートンの力学を微積分を使って非常にスマートな形に書き直した人なんです。だから、偶然だっていうのは人間の無知の証であるということを言ってます。今はそういう自然観はないですよ。物理学者でもそういうことを考える人はいませんけれども。二十世紀のはじめ、ポアンカレーが「偶然」を書いた頃、漱石がたぶん寅彦の翻訳を通して読んだ頃っていうのは、そういう絶対的決定論っていう自然観が蔓延をしてたんです。それを津田は使ったんです。だから、漱石はそこまでは理解してたと思います。理解してて、『明暗』の冒頭にポアンカレーの「偶然」の話を持ってきたと思うんです。最後のところで旅館の部屋で津田が清子さんと会ったとき、「世の中には偶然っていうことがありますよ」なんて嘘ついていますけどね。ここでも使ってるでしょう。だから、さっき言いかけましたけども、初期条件は小説の中でもう完璧に固まってると思うんです。417