ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALこのような会話の負のベクトルについての分析をおこなうにあたって、まず、その最初の例である津田と医者の会話についての考察から始めたいと思います。この会話は、この点から言うと、この小説の典型的な始まり、言い換えると「真の序奏」となっており、重要な分析対象です。次に、この最初の部分の分析から、どのような一般論を導き出せるか考えてみたいと思います。『明暗』のその「一」は、かなり興味深いものです。冒頭から津田が置かれている状況ほど微妙な状況に主人公が置かれている小説が、世界中のどの他の小説にあるでしょうか?身体の、ある部分の問題についての医者と患者の会話から始まる小説など、世界中を見ても他に例があるでしょうか?とはいえ、その「一」、そして小説自体が会話から始まるわけではなく、語り手の言葉である「医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下した」という短く、明快で、的確であると同時に省略的な文章から始まります。この文は、医者、津田という名の患者、手術台、つまりは診療所を示すことによって、はっきりと状況を描写しています。それと同時に、謎に包まれてもいます。なぜなら、この文を読んでも、特に患者がどのような検査を受けたのかはっきりとわからないからです。ここから発展する会話は、背景のない、宙づりの会話ではありません。小説が進むにつれてすぐにわかるように、白衣を着た医者と最初は服をまだ着ておらず、それからある程度時間をかけて着ることになる患者との間の、明確な場面での会話なのです。患者は、このあとで、帯をしめますが、手に取った袴はまだはいておらず、この動作はこの章の中のそれなりの部分を占めています。そして、この患者は不快な検査を受けたばかりなようです。彼は身体の、ある部分に「探りを入れ」られ、「瘢痕の隆起」を「がりがりかき落と」されたのですから。では、テクストの展開に戻りましょう。最初の文のすぐあとで、一つの声が現れます。会話文の引用を示す助詞「と」も会話文であることを示す発話に関する動詞もない文として現れるのです。つまり、誰のものか不明な声なのですが、「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。」という診断によって、すぐに医者のものだとわかります。この発言は肯定であり、「やっぱり」という言葉が示すように確信を表しています。とはいえ、その次に医者が言うのは、以前は「ついそこが行きどまりだとばかり思って、ああ云った」けれども、実は間違っていたということです。この間違いにはおそらく正当な理由があり、それは、偶然にも少々複雑な「痕跡の隆起」という漢語で説明されます。しかし、ここで重要なのは今日医者は「まだ奥がある」と言い、同じような状況の中で、以前は「ついそこが行きどまりだ」と言ったということです。つまり、まったく正反対のことを言っているわけです。この点は非常に重要です。なぜなら、この最初の発話は、この瞬間以降に医者が言うであろうことの信憑性に疑いをもたらすことになるからです。最初の診断を下したあとで、医者は結論を言わずに過去のことへ脱線して、患者の方が医者に秩序を取り戻させることになります。こうして、患者は医者が言わなかったその発言の論理的な続きを、すでに使われた言葉をほぼそのまま使うことによって、「そうしてそれが腸まで続いているんですか」と、自分で言います。すると、医者は自分の診断を数字を示しながらより詳しく説明しますが、ここでもまた自分が間違っていたということを繰り返します。「まだ奥がある」という表現は、ここで「五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」という説明に変わります。とはいえ、医者はやはり自分の診断の結論を言わず、津田の期待に応えません。この最初のやりとりは、短いとはいえ、示唆に富んでいます。医者は不快な診断を告知しつつ、同時に過去の過ちを告白します。その一方で、病状の説明も施すべき治療も示さず、患者を不安の中に取り残します。その上、医者の言葉の中には、まったく同情の色が見られないのです。この会話における小さな破局は、『明暗』の中でよくあるように、登場人物の間のしばしの沈黙へとつながります。このような沈黙は、この小説の中では大抵視線のやりとり、身体や顔の動きをともなう意味深な沈黙です。登場人物が多弁であるゆえに『明暗』は実に饒舌な小説である一方、沈黙の小説でもあります。なぜなら、この大量に発される言葉は、しばしば不十分、期待外れ、ひいては欺瞞に満ちており、言葉は沈黙に取って代わられるのです。次に現れる描写の段落は、津田の顔と医者の顔の描写の間で行ったり来たりします。津田の顔には二420