ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

『明暗』における会話の勾配重の表現が見られます。津田は苦笑しながらも失望の色をのぞかせますが、これはこのあとに何度も現れることになる津田の苦笑のうちの最初のものです。この小説の中に、彼の苦笑は35回現れます。(二度目はその「三」の「津田は細君の顔を見て苦笑を洩らした」という文に、つまり津田が妻と一緒にいるときに現れます。)医者の顔、そしてより広義に彼の身体的な挙動は、津田の目をとおして詳細に描かれます。これらは、津田の視点から解釈され、実際のやりとりが不在の一種の沈黙の会話となっています。とにかく、顔は『明暗』においては常に現れる要素です。「顔」という言葉は、小説の中に274回現れます。そして、非常にしばしば疑惑、疑問の対象です。また、この章は、明らかにこの小説全体の語り手の位置の問題を提起しています。漱石の小説が二つのカテゴリーに分けられることはよく知られているところです。『吾輩は猫である』の「吾輩」や『草枕』の「余」、『坑夫』の「自分」、『坊っちゃん』の「おれ」、『こころ』の二人の「わたくし」のように一人称で語る存在感の強い語り手が存在する小説と語り手の存在感が弱い小説です。『明暗』のような小説では、語り手の存在が薄いとはいえ、不在なわけではなく、重要な役割を果たしてさえいるのです。津田に焦点を置く一方で、津田から距離を置いて、この人物を外側から観察することもあるのです。とにかく、本来なら医者の義務であるゆえ、再開するべきである会話の進行には、この沈黙は役に立ちません。そのため、津田は再び「腸まで続いている」という同じ言葉を繰り返さざるをえません。しかし、今度は「とすると」という表現でつなぎ、彼にとって問題となる唯一の質問、つまり診断の結論を導くためです。当然のことながら、津田はこの結論を悲観的な方向に想像して、「癒りっこないんですか」と続けます。それに対する「そんな事はありません」という医者の答えは曖昧さのないものであるにも関わらず、患者を安心させることはできません。医者のこの最初の慰めの言葉は発されるのが遅れただけでなく、請われることによってやっと出てきたのです。それに、津田は完全に安心するわけにはいきません。医者は最初に間違ったのですから。その上、語り手はこの医者の弱い立場を曖昧な解説を加えることによって、さらに弱くします。医者は活?にまた無雑作に津田の言葉を否定した。併せて彼の気分も否定する如くに。なぜ医者は「活発」と「無雑作」を重ね合わせるのでしょうか。医者が本当に否定しているのは、「津田の言葉」なのでしょうか。それとも「彼の気分」なのでしょうか。それが明らかになることはありません。疑問は生み出され、維持されたままなのです。医者は言葉を続け、やっと説明し、患者を安心させようとします。「ただ今までのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃ何時まで経っても肉の上りこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思いに遣るより外に仕方がありませんね」しかし、その中で医者はコミュニケーションの過ちを繰り返します。まず、病気の深刻さを否定するのに、これから言うことの内容を弱める「ただ」という前置きから始めるのです。そして、不安を煽る言葉を連発します。「根本的の手術」「一思いに」「やるよりほかに仕方がありませんね」といったこれらの言葉は、その強さによって不安を煽るのですが、それだけでなく、曖昧でもあり、根本的なことは何も明らかにしていないのです。そこで、津田は「根本的の治療と云うと」と訊き、根本的かつ具体的な説明を求めざるをえません。医者の答えは、再び「医学的見解に基づいたもの」で、それは最悪の事態を招きかねないものです。医者の説明は、危険なほど正確であると同時に、まったく明快さに欠けるのです。それゆえ、不安を催す想像をかきたてます。この小説の英語への翻訳者であるナサン氏の見解がどのようなものであるかは存じませんが、次の部分はフランス語へ訳すのが非常に難しい部分です。「切開です。切開して穴と腸と一所にしてしまうんです。すると天然自然割かれた面の両側が癒着して来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」特に「穴」という言葉は、一筋縄ではいかない問題421