ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

『明暗』における会話の勾配例えば、「八十五」の最初の部分です。小林の顔には皮肉の渦が漲った。進んでも退いてもこっちのものだという勝利の表情がありありと見えた。彼はその瞬間の得意を永久に引き延ばして、何時までも自分で眺め暮したいような素振さえ示した。「何という陋劣な男だろう」お延は腹の中でこう思った。そうして少時の間凝と彼と睨めっ競をしていた。すると小林の方からまた口を利き出した。「八十八」の最初の部分はさらに興味深い部分です。二人の顔は一尺足らずの距離に接近した。お延が前へ出ようとする途端、小林が後を向いた拍子、二人は其所で急に運動を中止しなければならなかった。二人はぴたりと止まった。そうして顔を見合せた。というよりもむしろ眼と眼に見入った。その時小林の太い眉が一層際立ってお延の視覚を侵した。下にある黒瞳は凝と彼女の上に据えられたまま動かなかった。それが何を物語っているかは、こっちの力で動かして見るより外に途はなかった。きません。特に食堂で会話の巧みな吉川夫人の正面の席に着く場面がそうです。社交に慣れ切った夫人も黙っている人ではなかった。(「五十二」)こうして、お延は吉川夫人と話すきっかけをつかむことに失敗するのです。調子の好い会話の断片が、二、三度二人の間を往ったり来たりした。しかしそれ以上に発展する余地のなかった題目は、其所でぴたりと留まってしまった。二人の間に共通な津田を話の種にしようと思ったお延が、それを自分から持ち出したものかどうかと遅疑しているうちに、夫人はもう自分を置き去りにして、遠くにいる三好に向った。(「五十二」)お延は、すぐに太刀打ちできないことを悟ります。三好を中心にした洋行談が一仕切弾んだ。相間々々に巧みなきっかけを入れて話の後を釣り出して行く吉川夫人のお手際を、黙って観察していたお延は、夫人がどんな努力で、彼ら四人の前に、この未知の青年紳士を押し出そうと試みつつあるかを見抜いた。(「五十三」)明らかに、お延は小林と張り合える器ではないのです。5.会話のリズムのずれに関しては、劇場でのお延と吉川夫人の会話の例があります。周知のように、お延は楽しみにしていたこの芝居に行くために、器用に振る舞います。語り手は、劇場へ向かう人力車の中の彼女をこう描写します。ふっくらした厚い席の上で、彼女の身体が浮つきながら早く揺くと共に、彼女の心にも柔らかで軽快な一種の動揺が起った。それは自分の左右前後に紛として活躍する人生を、容赦なく横切って目的地へ行く時の快感であった。(「四十五」)しかし、この日の外出はお延の予想どおりにはい彼女はこの談話の進行中、殆んど一言も口を挟さむ余地を与えられなかった。自然の勢い沈黙の謹聴者たるべき地位に立った彼女には批判の力ばかり多く働らいた。卒直と無遠慮の分子を多量に含んだ夫人の技巧が、毫も技巧の臭味なしに、着々成功して行く段取を、一歩ごとに眺めた彼女は、自分の天性と夫人のそれとの間に非常の距離がある事を認めない訳に行かなかった。(「五十三」)そして、お延は吉川夫人に不意打ちされます。お延がこう考えていると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。「延子さんが呆れていらっしゃる。あたしが余まり饒舌るもんだから」お延は不意を打たれて退避ろいだ。津田の前で425