ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALかつて挨拶に困った事のない彼女の智恵が、どう働いて好いか分らなくなった。ただ空疎な薄笑が瞬間の虚を充たした。しかしそれは御役目にもならない偽りの愛嬌に過ぎなかった。「いいえ、大変面白く伺っております」と後から付け足した時は、お延自分でももう時機の後れている事に気が付いていた。また遺り損なったという苦い感じが彼女の口の先まで湧いて出た。(「五十三」)その上、吉川夫人はとどめを一撃を加えます。立ち上る前の一瞬間を捉えた夫人は突然お延に話しかけた。「延子さん。津田さんはどうなすって」いきなりこういって置いて、お延の返事も待たずに、夫人はすぐその後を自分でいい足した。「先刻から伺おう伺おうと思ってたくせに、つい自分の勝手な話ばかりして――」(「五十五」)す。医者の診察のあとで、手術を受けなければならないと言われて動揺して、家に帰ると、ここで小説に初めて登場するお延は、文字通り彼に気づかないのです!そして、彼らの最初の会話はまったく壊滅的です。津田は仕方なしにまた立ち上った。室を出る時、彼はちょっと細君の方を振り返った。「今日帰りに小林さんへ寄って診てもらって来たよ」「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。大方もう癒ってるんでしょう」「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」津田はこういったなり、後を聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。(「三」)その夜になっても、お延が理解を示さないという点で、変化はありません。このような場面には、会話のテンポを相手に押しつけようとする、二人の人物の戦いが読み取れます。そして、この戦いでは、その片方、吉川夫人が勝利するのです。6.とはいえ、重要な問題は信頼の問題です。すでに確認したように、この小説には発言の内容の信憑性を疑わせるような行為が現れます。例えば、手術の際に、医者の言うことを津田がほぼ信用していないことは明らかです。「コカインだけで遣ります。なに大して痛い事はないでしょう。もし注射が駄目だったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。それで多分出来そうですから」局部を消毒しながらこんな事をいう医者の言葉を、津田は恐ろしいようなまた何でもないような一種の心持で聴いた。(「四十二」)幸いにも、ことはうまく運びます。局部魔睡は都合よく行った。(「四十二」)しかし、津田は同時に妻の無関心にも苦しみま同じ話題が再び夫婦の間に戻って来たのは晩食が済んで津田がまだ自分の室へ引き取らない宵の口であった。「厭ね、切るなんて、怖くって。今までのようにそっとして置いたって宜かないの」「やっぱり医者の方からいうとこのままじゃ危険なんだろうね」「だけど厭だわ、貴方。もし切り損ないでもすると」(「三」)このようなやりとりは、津田の不安をますます掻きたてるだけです。叔父の藤井も、そもそも吉川夫妻や小林と同様、津田に対する理解を示すわけではありません。そうはいっても、津田は単なる被害者というわけでもないのです。小林が理解を求めるときには、それに応えようとしません。小林の語気は、貧民の弁護というよりもむしろ自家の弁護らしく聞こえた。しかしむやみに取り合ってこっちの体面を傷けられては困るという用心が頭に働くので、津田はわざと議論を避けていた。(「三十五」)426